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2009/08/14

ニッポン維新(57) 迷走の果て

2009/08/12

ニッポン維新(56) 迷走のプロセス(2)

2009/08/07

ニッポン維新(55) 迷走のプロセス(1)

2009/08/03

ニッポン維新(54) 迷走の始まり

2009/07/27

ニッポン維新(53) 麻生政権の誕生

2009/07/21

ニッポン維新(52) 錯覚だらけの自民党総裁選

2009/07/13

ニッポン維新(51) 福田総理の政権投げ出し(3)

2009/07/07

ニッポン維新(50) 福田総理の政権投げ出し(2)

2009/06/29

ニッポン維新(49) 福田総理の政権投げ出し(1)

2009/06/22

ニッポン維新(48) それからの福田政権

2009/06/12

ニッポン維新(47) 大政奉還と大連立(3)

2009/06/04

ニッポン維新(46) 大政奉還と大連立(2)

2009/05/27

ニッポン維新(45) 大政奉還と大連立(1)

2009/05/19

ニッポン維新(44) 二つの権力

2009/05/13

ニッポン維新(43) 安倍総理の政権投げ出し

2009/05/05

ニッポン維新(42) 07年参議院選挙の意味

2009/04/27

ニッポン維新(41) 維新前夜

2009/04/15

ニッポン維新(40) 政治改革より国会改革を

2009/04/06

ニッポン維新(39) 国会と官僚支配(7)

2009/03/30

ニッポン維新(38) 国会と官僚支配(6)

2009/03/24

ニッポン維新(37) 国会と官僚支配(5)

2009/03/16

ニッポン維新(36) 国会と官僚支配(4)

2009/03/07

ニッポン維新(35) 国会と官僚支配(3)

2009/03/02

ニッポン維新(34) 国会と官僚支配(2)

2009/02/24

ニッポン維新(33) 国会と官僚支配(1)

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ニッポン維新(32) 55年体制は本当に終わったのか

2009/02/09

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ニッポン維新(28) 55年体制とは(2)

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ニッポン維新(13) 政治とカネの本当の話(2)

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ニッポン維新(11) 政治リーダーの作り方

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ニッポン維新(10) 福田総理辞任の真相(2)

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ニッポン維新(9) 福田総理辞任の真相(1)

2008/08/27

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2008/08/13

ニッポン維新(6) 田中角栄の話の聞き役

2008/08/08

ニッポン維新(5) ロッキード事件の嘘

2008/07/30

ニッポン維新(4) 情報はすべて疑え

2008/07/24 ニッポン維新(3) 政権交代こそニッポン維新
2008/07/16 ニッポン維新(2) 崩壊寸前の自民党政治
2008/07/07 ニッポン維新(1) 坂本龍馬の夢を追え
 
 


ニッポン維新(57) 迷走の果て

 小沢秘書逮捕は麻生政権にとって「失地回復」の最大の切り札でした。ところが麻生政権の支持率回復は微増に止まり、民主党との支持率の差を逆転出来ません。麻生政権にとってはショックだったと思います。しかも国会も終盤に入る5月連休明けに狙いすましたように小沢氏は代表辞任を発表し、鳩山由起夫氏が後任に選ばれて、再び自民党と民主党の支持率の差が広がりました。


 麻生政権が解散・総選挙を見送ってから、状況を好転させようと打った手はことごとく失敗しました。可哀相な位です。それなら原点に立ち戻り、無理をせずに、自民党再生の方策を考えれば良いと思うのですが、この総理にはそういう頭がありません。相変わらず民主党を批判し罵倒するだけです。まるで子供の喧嘩です。それが国民からどう見られているかを考えようとはしません。自民党も大変な人物を総理に担いでしまったものです。

 あまりの資質のなさに自民党も困りました。しかし選んだ責任は自民党にあります。それでも次の総選挙で当選が危うい議員達に余裕はなく、党内から「麻生降ろし」の声が上がり始めました。本音で言えば自分たちが選んだ総理を自分たちで引きずり降ろすより、麻生総理自らの決断で辞任して欲しいのです。そのために色々声を上げているのですが、麻生総理には馬耳東風でした。

 麻生総理は金融危機を理由に解散を見送った訳ですから、小出しにしてきた景気対策が一段落した時点で解散を打つのが妥当です。それなら21年度の補正予算案が成立した6月19日が解散に踏み切る節目でした。解散の大義名文は「景気対策で国民の信を問う」です。ところが麻生総理は動きませんでした。これで解散の大義も見えなくなり、何のための解散かが分からなくなりました。

 鳩山総務大臣を更迭した時点で「分裂選挙」を仕組む目論見は消えましたから、もはや8月に解散しても「小泉路線の是非を問う」事にも、「世襲の是非を問う」事にもなりません。ひたすら「任期満了に近い」解散になり、解散の名に値しない解散として総理の解散権自体が疑われます。そのためか麻生総理は今度は任期満了からなるべく前倒しする事を模索するようになりました。

 とはいえ7月12日の東京都議会選挙に近い日程では公明党が嫌がります。都議選後でなるべく早いタイミングをと考えられたのが8月上旬の選挙でした。念願のサミットから帰国した時点で解散に踏み切り、7月27日公示、8月8日選挙の日程を麻生総理は心に描きました。「解散の大義」など全く頭にはありません。とにかく「麻生降ろし」を防いで、任期満了ではなく「麻生が解散権を行使した」と言われたい一心です。

 しかしこれも思うようにはなりませんでした。最後は公明党に押し切られました。解散は7月21日ですが、選挙は8月30日まで先延ばしさせられました。そうしないと選挙協力は出来ないと公明党に脅されました。しかし今度の選挙でどこまで公明党が協力するかは疑問です。公明党にとって権力の座から滑り落ちる政党を支えてもメリットは何もないからです。

 こうして事実上選挙戦の火蓋が切られました。公明党のおかげで40日という長い時間が与えられました。色々なことを考える余裕のある選挙です。前回のように「郵政民営化是か非か」の一点に熱狂する愚は繰り返さない事です。右からも左からも上からも下からも、そして昔から今までの日本の政治を考えながら投票する事が可能です。

 これまで「ニッポン維新」を読んでこられた方にはお分かりのように、今度の選挙は142年前の幕末に坂本龍馬が夢に見た議会政治をこの国に根付かせるための選挙です。69年前の戦時中に出来上がった官僚主導の計画経済体制を転換するための選挙です。小泉構造改革に対する国民の回答を出す選挙です。自公が生み出した麻生政権の10ヶ月を継続させるかどうかを判断する選挙です。そして何よりも日本国民が歴史上初めて権力を自分の手で作り出し、育てていくための選挙です。つまり「ニッポン維新の選挙」なのです。

 もうすぐその答えが出ます。その結果に期待しながらひとまずペンを置き、次回からは選挙後に政治のどこを国民が後押ししなければならないか、政治を育てるとはどういうことかを考えていきます。

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ニッポン維新(56) 迷走のプロセス(2)

 就任直後の解散を見送ったことで麻生総理には次のタイミングを仕組む政治力が求められました。しかし解散を仕組むのはそう簡単ではありません。解散とは衆議院議員全員の首を切る事です。誰も喜んで首を切られる者はおりません。総理にとって都合の良い時期は、総理から距離のある者には都合の悪い時期になります。余程の計略と政治力がなければ解散を仕組むことなど出来ないのです。

 麻生総理にはご先祖の前例を真似しようとする頭だけで、計略の知恵も政治力もありませんでした。初めに真似をしようとしたのは1948年12月に吉田茂が行った解散です。その年の10月に成立した第二次吉田内閣は政権基盤が脆弱でした。麻生政権とよく似ています。そこで吉田は政権基盤を固めるために2ヶ月後の12月に解散を行い、1月の総選挙で政権基盤を固めることに成功しました。

 年末年始の解散・総選挙は異例です。しかし真似をしたい前例がもう一つだけありました。それは1966年の「黒い霧解散」です。当時の自民党は数々の不祥事で国民の支持を失っていました。これも現在とよく似ています。ところが佐藤栄作総理は年末年始の解散・総選挙で善戦し、党内での求心力を高めました。麻生総理が真似したくなる理由です。麻生総理はしきりに「黒い霧解散」に言及し、ご先祖の墓参りをするようになりました。しかし側近と言われる議員達は下がり続ける支持率を見て、年末・年始解散に大反対し、結局総理の夢はかないませんでした。

 次に麻生総理が真似をしようとしたのは、1952年8月にご先祖が行った解散です。この選挙で吉田自由党は大勝し野党は惨敗しました。8月解散も珍しい解散です。戦後に二つしか例がありません。もう一つが小泉総理の郵政解散です。この時も自民党が大勝し、野党は大惨敗でした。理由は与党の「分裂選挙」にあります。吉田時代は再軍備を巡って与党が分裂しました。小泉総理は郵政民営化を巡って自民党を分裂させました。与党分裂が逆に与党を大勝に導いたのです。

 麻生総理も分裂を仕組もうとしました。盟友の鳩山邦夫総務大臣に「かんぽの宿」問題を取り上げさせ、自らも「郵政民営化に反対だった」と発言して小泉支持勢力を挑発し、西川日本郵政社長を退陣に追い込もうとします。一方で菅選挙対策副委員長には「世襲批判」をさせ、この問題でも党内に分裂の芽を作ろうとしました。しかし政治力がない総理がやるとうまくいきません。あっという間に小泉側の反撃に遭い、ついには鳩山総務大臣を更迭せざるを得なくなりました。これで支持率は決定的に下がりました。

 こうした中で3月に東京地検特捜部は小沢民主党代表の秘書を政治資金規正法の虚偽記載容疑で逮捕しました。予想通りのスキャンダル攻撃ですが、そのやり口は強引でボロがいくつも見えました。「秘書逮捕」は世間向けには衝撃的ですが、政治家を摘発する際に必ず行われる検察首脳会議は開かれず、小沢氏の自宅なども家宅捜索されず、狙いは小沢氏本人の訴追より、「道義的責任」をとらせて代表辞任に追い込む事にあります。小沢氏が謝罪して代表を辞任すれば秘書も起訴しない方針に見えます。

 ところが小沢代表は謝罪をせずに検察批判を行いました。これに検察は慌てました。急遽別件のゼネコン捜査を行って旧悪を暴こうとしました。しかしそれでも大した成果は得られず、マスコミを使った「小沢辞任コール」を盛り上げるのがせいぜいで、当初の目論見は崩れました。資金を提供した西松建設は森元総理が率いる自民党清和会と密接な関係にある企業ですが、官房副長官がわざわざメディアに対し「事件は自民党に波及しない」と発言する大ポカをやりました。この発言でこれが政治的意図を持った捜査であることがはっきりしました。

 それにしても選挙直前に東京地検が政界捜査を行ったことは、日本の民主主義がいかに脆弱なものであるかを世界に示しました。アメリカには日本を「北朝鮮並みの国家」と指摘する知日家がいます。理由は「司法とメディアが行政府に隷属しているから」です。要するに日本は民主主義国家ではなく、司法もメディアも官僚に従属する独裁国家だと言うのです。東京地検による「小沢秘書逮捕」はそうした見方を裏付ける事になりました。(続く)

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ニッポン維新(55) 迷走のプロセス(1)

 麻生政権の考えは時間を稼いで状況を好転させ、それから解散・総選挙に打って出るというものですが、状況を好転させるシナリオがある訳ではありません。先送りを決めてからシナリオを作るいわば泥縄です。

 すぐに飛びついたのが公明党の主張する定額給付金の支給でした。景気対策として国民一人当たり1万2千円を配る話ですが、景気にプラスかと言えば疑問です。これまでの経験では広く薄くよりピンポイントに金を使う方が経済効果は大きくなります。景気対策より選挙対策としてのバラマキと見るのが妥当でした。建前と本音が乖離しているため具体論になると混乱します。支給の仕方や支給の範囲を巡って政権内部から様々な意見が飛び交い、麻生総理の発言も二転三転しました。信念に裏打ちされていない政策では、金をバラ巻いても支持率の上昇にはつながりません。

 そもそも金融危機に立ち向かうポーズだけで状況を好転させようとする所に無理があります。麻生総理の発言は首を傾げたくなるようなデタラメの連続でした。まず選挙を「政治空白」と断定し、「金融危機に政治空白は許されない」と発言しました。しかし金融危機の震源地であるアメリカでは、その頃大統領選挙と上下両院の議会選挙の真っ只中でした。選挙の争点はそれこそ「金融危機からアメリカを救えるのはどちらの政党の政策か」です。アメリカ国民は金融危機に対する政策を選挙で選ぶことが出来るのです。それを「政治空白」と呼ぶ感覚は常識を欠いています。

 また麻生総理は「政局より政策が大事」と繰り返しました。本人は選挙などせずに政策を作ることが大事と言いたいのでしょう。しかし政策は国民の支持がなければ無力です。国民の支持を得る手段は選挙です。つまり政策を競わせ、その中から確固たる政策を作り上げるためには政局が必要なのです。それが民主主義政治です。しかしこの国の官僚は「政局」を好みません。官僚は「政策」が政治家に関与されずに成立することを好みます。いわんや「政権交代」が起きてこれまの「政策」が変更されることなど考えたくもありません。そうした官僚的思考が「政局より政策が大事」に込められています。麻生総理の発言は官僚を代弁し自分たち政治家の役割を無視するものでした。

 時間を稼ぐために景気対策を小出しにするやり方は国民にインパクトを与えません。麻生政権は「四段ロケット」と言いましたが、国民から見れば「牛のよだれ」です。ダラダラとスケールの小さな政策が続くのでは将来不安が解消されません。どだい外需主導の日本経済はアメリカが立ち直って物を買ってくれない限り立ち直らない構造です。その構造をそのままにして、「景気だ、景気だ」と騒いでも全く意味はありません。世界の指導者は今回の金融危機でまず構造問題に言及しています。しかし麻生政権にはそうした姿勢が見られませんでした。

 そこで次に考えられたのが民主党に対するスキャンダル攻撃です。07年の参議院選挙で自公政権が過半数割れをした時から、私は民主党の小沢代表はスキャンダル攻撃の最大ターゲットになったと判断していました。日本に限りませんが権力闘争の世界にスキャンダル攻撃は付き物です。世の東西を問わず権力闘争に打ち勝つためにはそれを乗り越えなければなりません。ただし民主主義諸国では警察や検察などの公権力が政治の権力闘争に利用されることはありません。しかし発展途上国では権力を握る側が公権力を使って野党を弾圧する例があります。

 かつて細川政権が誕生し、自民党政権が下野した時に何が起きたかを思い出せば、自民党の野党対策を想像する事が出来ます。細川政権は国民の支持を失って潰れたのではありません。細川総理が突然退陣表明を行い、背後で支えていた小沢氏に対する「剛腕批判」が巻き起こって社会党とさきがけが連立から離脱しました。自民党はその社会党とさきがけと連立を組み社会党の村山富市氏を総理に担いで、選挙を経ずに政権に復帰したのです。細川総理の辞任の理由は未だに真相が不明ですが、警察出身の自民党議員がスキャンダルをネタに退陣を迫ったというのが専らの噂です。

 麻生総理が組閣に際して、いの一番に前警察庁長官を官房副長官に据えた事は、民主党に対するスキャンダル攻撃の可能性を示していると私は見ていました。私の予想通り小沢潰しのスキャンダル攻撃が炸裂しました。(続く)

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ニッポン維新(54) 迷走の始まり

 9月22日に第23代自民党総裁に就任した麻生太郎氏は、24日に国会で第92代内閣総理大臣に選ばれました。小泉政権が05年の9月に総選挙を行って以来、安倍、福田と二代にわたる政権は国民の信任を得ないまま終わりましたから、何よりも解散・総選挙の断行が求められる政権です。29日に国会で行われた麻生総理初の所信表明演説はその事を意識し過ぎて前代未聞のものとなりました。

 総理が就任して最初に行う演説は、自分が国家の現状をどう捉えているか、だから何をどうするかについて自身の考えを述べるものです。世界の政治指導者は例外なくそういう演説を行っています。ところが麻生総理の演説は全くそうではありませんでした。最初に福田前政権が作成した緊急経済対策と補正予算の説明を行い、しかし日本経済が立ち直るまでには3年かかるとの見通しを述べた後は民主党に対する質問の羅列でした。

 民主党は福田前政権の補正予算案に賛成なのか、反対なのか。インド洋の海上給油には賛成か、反対か。消費者庁の創設に賛成か、反対か。質問だらけでまるで野党の党首のようです。しかも審議を行ってもいない問題に対して賛成か反対かを質問している訳ですから、民主党はまともに答えられるはずがありません。麻生総理の狙いはそこにありました。答えない野党の姿を浮き彫りにして、「我々には政策があるが、野党には政策がない」という印象を国民に与えようとしているのです。選挙を意識して考え出された姑息な戦術です。

 総理を支える霞ヶ関の官僚の知恵だとすれば、霞ヶ関の知能レベルが低下した証拠です。麻生総理本人の考えならこの人物に総理の資質はありません。いずれにしても92代に渡る総理の就任演説としては最低でした。ところでこのあたりまでの麻生総理は選挙をやる構えを見せていますが、水面下では選挙を回避する方向に舵が切られつつありました。

 麻生政権の誕生と共に自民党が行った世論調査が麻生政権に衝撃を与えました。盛り上がりを欠いた総裁選挙を反映してか、麻生政権の支持率は期待していたほど上がりませんでした。選挙をしても過半数は得られない見通しです。選挙に踏み切る事にためらいが生まれました。しかし全ての事は麻生政権誕生直後の解散を想定して準備されていますから、表の動きは解散・総選挙を意識したものばかりになります。このままで国会議員が選挙に走り出すと、牛の暴走と同じ様に止めたくとも止まらなくなります。

 所信表明を終えた日の深夜、アメリカから大ニュースが飛び込みました。アメリカ下院が金融安定化法案を否決したためニューヨーク証券市場が大暴落したのです。麻生総理は思わずこのニュースに飛びつきました。金融危機を口実に選挙を先延ばしする事を決断したのです。これが麻生政権を窮地に追い込む大誤算となりました。(続く)

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ニッポン維新(53) 麻生政権の誕生

 錯覚だらけの自民党総裁選挙でも視聴率目当てのテレビ局はせっせと取り上げて放送しました。しかし初めから勝者が決まっている消化試合で、しかも悪役不在となれば選挙は全く盛り上がりません。何とも間延びのしたお寒いパフォーマンスが全国を巡って繰り広げられました。

 悪い時には悪い事が重なるもので、選挙戦の真っ最中にアメリカの証券大手リーマン・ブラザースが破綻、世界の金融危機が幕を開けました。候補者の一人である与謝野財務大臣は内輪の選挙などをやっている場合ではありません。すぐに公務に戻るべきでしたが、「日本経済には蚊に食われた程度の影響しかない」と発言して選挙戦を続けました。しかし問題発言になる事を恐れたのか、次には「蚊」を「蜂」と言い換えて、「蜂に刺されれば死ぬこともある」と言いつくろいました。

 盛り上がらないまま終わった選挙の結果、本命の麻生氏は地方党員票の95%、国会議員票の56%を獲得して第23代自民党総裁に就任しました。地方票が圧倒的に麻生氏を支持したのは、「小泉構造改革を是正して欲しい」との地方党員の声が反映されていると思われます。しかし自民党内には郵政選挙で当選してきた「小泉チルドレン」など多くの小泉構造改革支持派がいます。郵政選挙で多くの議席を得たため、選挙をやらずに政権のたらい回しをやった結果、自民党は党員と国会議員との間に「ねじれ」が生じているのです。

 そうした矛盾をはらみながら「選挙の顔」としての麻生政権がスタートしました。政権の課題は一にも二にも解散・総選挙を断行することです。それは麻生総理も十分に意識していました。最初の組閣人事に妙な形でそれが現れます。人事は権力者の資質を占う最適の材料ですが、麻生総理は臆面もない論功行賞人事を行いました。安倍晋三内閣を思い出させる「お友達内閣」の再現です。「どうせすぐに解散するのだから、その時までの短期の布陣だ」という計算が見て取れます。

 私はその人事を見て、「背水の陣内閣」と言ってスタートした福田政権とは対照的な権力の質を感じました。参議院で過半数割れをした政権与党が持たなければならない「謙虚さ」や「危機感」を感じることが出来ないのです。自民党が結党以来経験したことのない苦境にあることを、この総理はどれほど自覚しているのだろうか。そう思わざるを得ない人事でした。

 しかもこの人事で麻生総理は前例のない事をいくつか行いました。一つは事務の総理秘書官に総務省出身者を起用し、その人物を最側近としたのです。総理秘書官は財務省、経済産業省、外務省、警察庁からの出向者で構成されるのが通例です。中でも財務省出身者が中心となって総理を支える慣例がありました。麻生総理はその慣例を打ち破って総務省出身者を優遇したのです。

 もう一つは官房副長官に前の警察庁長官を起用した事です。この人物は安倍晋三氏が総理在任中に官房副長官に起用しようとした事があり、しかし政権投げ出しによって実現はしませんでした。本人は既に退官して民間に天下っていたところを呼び戻されました。極めて異例の人事です。安倍氏に対する友情なのか、それとも別の狙いがあるのか不可思議な人事でした。

 この人事を見て福田前総理が「官邸に警察関係者が多くなりましたね」と嫌な顔をしたと報じられました。私には一連の人事が「旧内務省の復活」と映りました。戦前も戦後も日本は官僚が支配する国ですが、戦前の官僚機構で最も権力を握っていたのは内務省です。明治の初めに権力闘争を制した大久保利通が内務大臣だったからです。しかし敗戦によって内務省は解体されました。日本を占領したGHQは軍国主義を主導した内務省に代わり、大蔵省を官僚機構の中心に据えたのです。

 
そのため戦後の総理大臣は大蔵官僚を側近に置いて政権運営を行いました。これに対し旧内務省勢力は事あるごとに復権を目指して大蔵省と対峙してきました。元内務官僚の後藤田正晴氏や中曽根康弘氏が政治の世界に進出したのもそのためです。そして霞ヶ関改革によって誕生した総務省は旧内務省の復活と言われる役所です。大久保利通の子孫に当たる麻生総理が旧内務省の復活を意識させる人事を行った事は、霞ヶ関内部の権力闘争を刺激するものでした。(続く)

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ニッポン維新(52) 錯覚だらけの自民党総裁選

 福田総理は退陣会見で「総理の発言は国民から見ると、他人事を言っているように聞こえる」と言った記者に対し、「私はあなたとは違うんです。客観的に自分を見ることが出来るんです」と気色ばんで反論しました。この発言が福田総理の駄目さを象徴しているとあちらこちらで批判されました。

 しかし私は、福田総理が臨時国会で解散・総選挙に追い込まれる状況を察知し、自分が総理である限り選挙に勝てる目算はなく、一方で小泉グループや公明党が水面下で自分の足を引っ張っている以上、客観的に考えて退陣するしかないと判断したのは納得出来ると思いました。安倍氏のように退陣すべき時期に退陣せず、臨時国会が開かれて質疑が始まってから政権を投げ出した醜態に比べれば、冷静な判断だったと思います。しかし誰からもそれは理解されず、福田総理も安倍氏と同様に「KY」だと言われました。

 福田氏の胸中には麻生氏が公明党と組んで政権を狙っていた事に、「それほど権力が欲しいのならいつでも呉れてやる」との思いがあったように思えます。大連立の頃から福田総理を徳川慶喜と似ていると思っていた私は、この政権投げ出しに違和感はありませんでした。慶喜もまた徳川政権を継続させることに執着しない政治家でした。まず大政奉還を行って権力を手放し、にもかかわらず権力を独占しようとする薩長が鳥羽伏見の戦いを起こすと、戦うことをせずにさっさと江戸に逃げ帰り、上野寛永寺に籠もってしまいます。そのため日本を二分する内戦は避けられ、江戸は無血開城されました。勝海舟は慶喜の大政奉還を「公」の政治、明治維新を「私」の政治と断じています。慶喜は天下国家を考えて大政奉還を行ったが、薩長は権力欲だけで明治維新を行ったと言う意味です。

 福田総理の場合は、野党に政権を明け渡す前に、与党の中に権力を欲する者がいたため、それに政権を明け渡しました。こうして生まれたのが麻生政権です。この政権は不人気の福田政権に代わり解散・総選挙を行う事が目的ですから、与党は内閣支持率を上げるための作戦を考えました。それがメディアを動員して華々しい総裁選挙を国民に見せつける事でした。01年に小泉総理が圧倒的な国民の支持を得た総裁選挙の記憶が与党には残っているのです。しかしそれは大いなる錯覚でした。

 01年の自民党総裁選挙には小泉総理以上に国民を引きつけた田中真紀子氏の存在があり、また野中広務という希代の悪役もいました。それが総裁選挙を大いに盛り上げ、国民は自分に投票権もないのに日本の将来を決する選挙だと錯覚しました。しかしその後は錯覚も次第に覚めていきます。郵政選挙を別にすれば、国民が小泉政権を常に選挙で勝たせた訳ではありません。しかし自民党は派手な総裁選挙をやらないと国民を引きつけられないと思い込んでいました。

 「政策の競い合い」と称してテレビに顔の売れた候補者を乱立させました。まじめな自民党支持者から見れば総裁候補とは思えない候補者ばかりが立候補しました。しかし小泉政権以降のメディアは「ワイドショー政治」が「民主主義」だと錯覚していますから、せっせと総裁選挙報道を行い、代表選挙を見送った民主党を「民主主義的でない」と批判しました。

 政党内部の選挙をやろうがやるまいがそれは政党の勝手で、民主主義とは何の関係もありません。民主主義というなら、07年の参議院選挙で勝利した民主党が代表選挙をやり、国民の支持を受けた小沢代表を政党の都合で代える方が民意に反します。民主党が代表選挙をやらなかったのは世界の常識に合致しており、極めて民主主義的でした。

 反対に党内選挙を華々しく行った自民党には分裂の芽が生まれる危険性がありました。そう思っていると、思った通り自民党最大派閥の町村派が総裁選挙を契機に分裂を始めました。福田総理は麻生政権を望む公明党と麻生支持勢力に配慮して退陣を決めた訳ですから、総裁選挙をやろうがやるまいが麻生政権が誕生する事は決まっています。にもかかわらず自民党が総裁選挙をやるのは、ひとえに自民党の支持率を上げたいためです。しかしそれが大錯覚であることが次第に明らかになりました。(続き)


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ニッポン維新(51) 福田総理の政権投げ出し(3)

 どうにか通常国会を乗り切った福田総理はようやく自前の政治に取りかかる事が出来ました。それまでは政権を投げ出した安倍前総理の後始末です。前総理が国際公約したインド洋での海上給油法案では越年国会という異例の国会運営を余儀なくされました。道路特定財源の見直しでは二度の再議決が必要でした。とにかく参議院で過半数を失った政権は苦労の連続です。そして自前の政治をやろうとしても限界があります。小泉政権が敷いた路線から逃れることが出来ないのです。

 政治の常道から言えば、小泉路線を修正するためにはもう一度選挙をやって修正の是非を国民に問う必要があります。しかし参議院選挙の惨敗によって、小泉政権が獲得した衆議院の三分の二の議席を守ることが至上命題となりました。三分の二を一議席でも下回れば再議決は不可能となり、政権運営はお手上げとなります。従って選挙をやりたくても出来ない状況になってしまいました。政権運営を安定させる大連立も民主党の反対でかないません。八方ふさがりの中で福田総理はそれでも独自カラーを出そうとしました。

 それが消費者庁の創設です。総理就任以来着々と準備を進めてきたテーマで、明治以来産業の育成にばかり力を入れてきた官僚機構が初めて消費者の側に立って行政を行う試みです。福田総理はこれを「静かなる革命」と呼びました。そのネーミングには小泉政権の「構造改革」とは一線を画した福田カラーが滲み出ています。小泉総理のように何をやるにも敵を作り、敵を挑発して声高に「改革」を叫ぶやり方でなく、静かにしかし大胆な改革を成し遂げる政治です。そのためには安倍政権から引き継いだ内閣を改造して自前の人事を行う必要がありました。

 ところが福田総理のこの動きに対して与党内から足を引っ張る動きが出てきました。一つは小泉元総理から内閣改造と解散を牽制する発言がありました。小泉構造改革路線の修正につながる動きを封じようとする発言です。もう一つは公明党の神崎前代表が「福田政権のままでは選挙に大敗する」と発言しました。露骨な「福田降ろし」です。民主党の小沢代表と福田総理の連携を危惧する公明党は、国民に人気のある麻生太郎氏に交代させようと動き始めていました。

 こうした中で福田総理は8月1日に内閣改造を断行し、自民党幹事長に渦中の麻生氏を起用しました。これは「福田降ろし」を画策する勢力に対し、その旗頭に担がれる麻生氏を取り込む一方、いざとなればいつでも麻生氏に政権を譲る構えの人事です。いわば政権を二段ロケットにし、自前の政治はやれるところまでやるという捨て身の構えです。

 通常国会の会期末には民主党小沢代表の指示で史上初めての総理問責決議案が可決されています。秋の臨時国会が始まれば冒頭から解散に追い込まれる可能性もあります。選挙のためには内閣支持率の浮揚が絶対的に必要です。福田総理が狙ったのは拉致問題の解決でした。安倍政権時代の北朝鮮に対する強硬姿勢を改め、制裁の解除を条件に拉致問題の再調査を行う事で北朝鮮と合意が成立しました。既に北朝鮮が死亡と発表している人物の帰国は無理としても、まだ知られていない拉致被害者が発見され、帰国する可能性は十分にあります。それが実現すれば内閣支持率は上昇し、選挙に勝てる可能性も出てきます。

 ところが北京オリンピックに世界の目が注がれていた8月下旬、気になるニュースが流れました。北朝鮮の金正日総書記が病に倒れたと言うのです。それが事実なら拉致再調査は中断です。支持率を上昇させる福田総理のもくろみも崩れます。内閣支持率の上昇がないままに臨時国会を迎えれば悲惨な事が待っています。インド洋での海上給油法案の期限切れが再びやってきますが、同じ事の繰り返しでは消耗するばかりです。

 そこにもう一つ悪いニュースが飛び込みました。麻生氏が中心となって仕掛けてきた民主党の分断工作に結論が出たのです。民主党から17人を引き剥がす事が必要な工作で、離党したのはわずかに2人でした。麻生氏本人は「まだ続きがある」と強がりましたが、惨憺たる結果と言うしかありません。福田政権は全く手詰まりを解消する事が出来ないままに臨時国会を迎えることになりました。

 国会が召集される直前の9月1日、福田総理は緊急記者会見を開いて退陣を表明しました。突然の政権投げ出しがまた起こりました。(続く)

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ニッポン維新(50) 福田総理の政権投げ出し(2)

 福田総理の「肉を切らせて骨を切る」政局運営によって、一時的な暫定税率の期限切れはありましたが、予算と予算関連法案は無事に成立しました。福田内閣を総辞職か解散に追い込む「3月決戦」は不発に終わりました。

 衆議院で少数の野党が予算の成立を阻むためには、新年度に入ってからも国会を空転させ、国家の機能を麻痺させなければなりません。そのためには圧倒的な国民の後押しが必要です。1989年に竹下総理が予算の成立と引き替えに退陣した時は、野党が4月下旬まで国会を空転させました。それでもリクルート事件に怒りの声を上げていた国民は野党を支持しました。民主党は「3月決戦」を叫びましたが、そこまで国会を空転させることは出来ませんでした。

 それには福田政権の巧妙な作戦もありました。例えば日銀総裁人事を政局に絡ませたのです。日銀総裁人事には国会の同意が必要です。参議院で多数を占める野党が同意しないと人事は決まりません。そこで政府は民主党の反対が明らかな人事案を示し、民主党の反対で日銀総裁が空席になる状況を作り出しました。民主党が反対する人事案を次々に提示して民主党に反対させ、「日銀総裁を空席にした責任は民主党にある」とメディアに批判させる作戦です。

 
メディアに批判されないように民主党執行部が政府案を受け入れれば、民主党の内部から執行部を批判させ、民主党の分断を図る狙いもあります。実際に3月19日で任期の切れる日銀総裁ポストは空席となり、メディアは連日厳しく民主党を批判しました。従ってとても民主党が国会を4月に入ってまで空転させることなど出来ません。こうして「3月決戦」は回避されましたが、「ねじれ」国会では日銀総裁人事までが政局に利用されたのです。

 
「3月決戦」を不発にした民主党に対して、「参議院で多数を占めているのに福田総理に対する問責決議案も出せない」との批判の声が上がりました。「問責決議は伝家の宝刀ではなく竹光だ」という解説も流れました。しかし予算を巡る攻防では、やはり衆議院での戦いが雌雄を決するのです。衆議院で成立した予算をいくら参議院で反対してもただの嫌がらせになります。まず衆議院で予算を成立させないように徹底抗戦するしかないのです。そして参議院の「問責決議」は予算には使えませんが「竹光」でもないのです。

 民主党の小沢代表は通常国会の最終場面で福田総理に対する問責決議案を参議院に提出させ、国会史上初めて内閣総理大臣の問責決議案が可決されました。メディアは「気の抜けたビールだ」と冷ややかに論評しましたが、全く分かっていないと私は思いました。次の臨時国会の冒頭から野党が「問責決議が可決された福田総理を認めない」と言って、審議に応じないことがあり得るからです。福田政権は冒頭から立ち往生して解散か総辞職を迫られるのです。野党がその一手を打ったところで波乱の通常国会は閉幕しました。福田総理はどうにか「3月決戦」を回避する事に成功しました。しかし次の臨時国会に総理として姿を現すことはありませんでした。(続く)

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ニッポン維新(49) 福田総理の政権投げ出し(1)

 公明党の太田代表が「衆参ねじれで日本政治は高等数学の世界になった。これまでは足し算引き算か、多少複雑でも掛け算割り算の能力があれば、政治を見通すことが出来た。しかし今や微分積分の世界で、これまでの能力では理解不能だ」と言った事があります。

 全くその通りで、日本政治は誰も経験のない未知の領域をさまよっているのです。参議院で権力を失った自民党は、これまでと同じ姿勢で政治に取り組む事は出来ません。ところが自民党の政治家や取材している記者達は従来の感覚を変えていないため、ピントのズレた解説ばかりが目立ちます。そのため私が徳川慶喜に匹敵すると見ていた福田総理は、「無能な政治家」の烙印を押され、与党の中から引きずり降ろす動きが出てきました。

 「3月決戦」を叫ぶ野党に対して、福田総理は何としても予算と予算関連法案を成立させなければなりません。それが出来なければ国家は機能麻痺に陥ります。問題は再議決を必要とする予算関連法案をいかに成立させるかです。その中にガソリン税の暫定税率を継続するための法案があります。従って3月31日までに成立させないとガソリン価格が下がります。それによって予定の税収が失われ、予算は欠陥予算となります。しかも影響は国だけでなく地方自治体にまで及びます。日本中の行政が大混乱する事になります。

 一方で小泉政権以来政府は道路特定財源を一般財源化して無駄な道路を作らないという方針を掲げてきました。しかしこれに対して自民党道路族や地方自治体などは反対です。道路特定財源もガソリン税の暫定税率も死守する構えです。ところが民主党は道路特定財源の一般財源化や暫定税率の廃止に賛成です。

 
福田政権の敵は「3月決戦」を叫ぶ民主党ですが、しかし一般財源化を実現する為にはその力を借りる必要があります。ところが水面下で進行している民主党分断工作を成功させるためには、民主党内の道路族を取り込むために自民党道路族の力を借りる必要もあるのです。福田政権はこれらを同時に解決する計略を考えながら予算関連法案の成立に取り組まなければなりません。

 
福田政権はかなり手の込んだ国会運営を行いました。予算の組み替えをさせないために暫定税率の継続を優先するという単純な手法を取りませんでした。まず予算案を強行採決して民主党の反発をあおり、一方で再議決を二度もやらざるを得ないように仕組んで、暫定税率の成立をわざわざ難しくしました。そのため暫定税率はいったん期限切れとなり、民主党を勢いづかせました。

 これは道路特定財源の一般財源化を認めないと「3月決戦」を叫ぶ民主党によって解散・総選挙に追い込まれる事を意味します。自民党道路族も一般財源化を認めざるを得なくなりました。その上で福田政権は再び暫定税率を復活させて予算の組み替えを防ぎ、道路族の不満に配慮しました。いわば肉を切らせながら骨を切るような手法です。このためガソリン価格は下がった後にまた上がり、国民の方は大混乱しました。パニックが起こる危険性もありましたから、福田総理は勇気ある決断を行ったと思います。

 福田総理の政治手法は小泉総理と全く対照的です。小泉総理は自民党道路族を「抵抗勢力」と決めつけ、華々しく戦う姿を国民に見せながら力で押さえ込みます。しかし裏側では道路族と妥協して表で言うほどの改革はしないやり方です。しかし福田総理は敵と味方を二分するのではなく、あらゆる勢力の力を利用しながら、最終的に自分が目的としたところに政治を主導していきました。私は福田総理の方が本来の政治のあり方だと思うのですが、小泉政治に影響された人たちには理解されません。単純な政治が喝采を浴び、複雑な政治が理解されないのは困った話ですが、こうして福田総理の人気はどんどん下がっていきました。(続く)

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ニッポン維新(48) それからの福田政権

 大連立が潰えた事で福田総理には難しい政局運営が待ち受けていました。衆議院での再議決は自民党には経験のないことです。参議院が否決した法案を衆議院で成立させることに国民がどう反応するか全く予想がつきません。最初の再議決はインド洋で自衛隊が行う海上給油法案の採決でした。

 
福田政権は法案成立に万全を期すため、従来の海上給油法案をそのまま延長するのではなく、海上給油だけに限定する極めて制約的な法案を新たに作りました。さらに再議決の時期をなるべく遅らせ、臨時国会を大幅延長して異例の越年国会としました。臨時国会と通常国会の間隔をなるべく短くして、再議決を理由に野党が総理問責決議案を提出する事を牽制するためです。

 問責決議案は内閣不信任案と違って法的拘束力はなく、直ちに解散や内閣総辞職にはなりません。しかしこれが参議院で成立すると、総理は参議院での審議に出席できなくなります。臨時国会の最終場面で問責決議案が可決されると、通常国会冒頭の施政方針演説が参議院では行えない異常事態となり、国会は完全に麻痺します。結局、異常な国会にした責任は総理と野党のどちらにあるのかを国民に問うしかなくなります。つまり解散せざるを得なくなるのです。

 そして解散に追い込む決戦の時期をどこに設定するかは小沢民主党の手に握られました。海上給油法案の再議決を巡って問責決議案を提出すれば年末年始が決戦の時となりますが、小沢氏はそうではなく予算を巡る攻防がピークを迎える3月を決戦の時期に選びました。予算の本体は憲法の規定で衆議院の議決が優先されますが、予算を成り立たせるための歳入法案など関連法案にはその規定がありません。関連法案の成立にはやはり再議決が必要になります。しかも丁度3月末にはガソリン税の暫定税率が期限切れを迎える事になっていました。暫定税率が切れると税収に狂いが生じ、国も地方も予算の見直しが必要になります。一方、ガソリンの値段は下がりますから国民は喜びます。その時期に決戦を仕組む方が野党に有利と思われました。

 郵政民営化と並んで道路改革を主要な課題とした小泉政権は道路特定財源の一般財源化を目指しました。民主党も同じ考えです。しかし自民党道路族や地方自治体はこれに絶対反対です。福田政権が一般財源化に踏み切れば民主党からの攻撃はしのげますが、与党の中から足を引っ張られます。3月から5月にかけての福田政権はかつてなく難しい政局運営に迫られました。

 この時期、水面下では民主党に対する分断工作が進行していました。前にも説明した通り、参議院で過半数を失った自民党がやるべき事は民主党と協力しながら政治を前に進めるか、民主党の参議院を切り崩して味方に引き入れ、参議院で過半数を獲得するかです。民主党分断工作が成功すれば自民党は万々歳です。

 福田総理は大連立からも分かるように、民主党との協力を優先する考えの持ち主ですが、総裁選挙を争った麻生太郎氏はこれとは逆に民主党の分断工作で党勢回復を図る考えでした。麻生氏は秘かに民主党内の道路建設賛成派と手を組み、民主党から相当数の議員を引き剥がす工作を進めていました。

 それは勿論福田総理の了解の下で行われた事です。福田総理は内心では道路特定財源の一般財源化に賛成しながら、道路族の反対を押さえ込もうとはせず、道路族に暫定税率維持の声を上げさせることで民主党内の道路建設賛成派を自民党に引き込む環境作りを黙認しました。道路族を押さえるのか押さえないのかが分からない福田総理の行動は、国民の目に「指導力のない総理」と映りました。福田総理に対して野党支持者だけでなく与党支持者からも批判の声が上がるようになり、内閣支持率の低下に拍車がかかりました。(続く)

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ニッポン維新(47) 大政奉還と大連立(3)

 渡辺恒雄氏からの誘いに乗るかのように見せかけて、福田総理に大連立を持ちかけたのは小沢代表の側だと思います。衆参の「ねじれ」に悩む福田総理は直ちにこれに応じました。「インド洋での海上給油活動を長期に中断する訳にはいかない」との理由で総理の側から党首会談を持ちかける形にし、10月30日に自民・民主の党首会談が開催されました。

 党首会談には両党の幹事長と国対委員長も同席しましたが、大半の時間は福田・小沢両氏だけのいわゆる「差し」の会談です。そこで「大連立」の条件などが煮詰められました。会談は11月2日に再び開かれ、この時に福田総理は「小沢氏が主張する安全保障政策を受け入れる」との思い切った決断を表明しました。安全保障政策は国家の根幹となる重要な柱です。その重要なポイントで自民党が譲歩する事は、民主党政権が事実上誕生すると考えてもおかしくないほどの重みがあります。

 小沢代表は福田総理の決断を民主党に持ち帰り、臨時役員会に諮りました。しかし出席した役員全員の意見は大連立に反対でした。自らの力で政権交代を果たす事にならないことや、戦前の大政翼賛会と同じになるというのが理由です。小沢代表は電話で福田総理に「連立協議を今後は行わない」事を告げ、自らの考えが役員会で同意されなかった事は不信任に値するとして代表辞任を表明しました。

 結局、小沢代表の辞任は民主党執行部全員の慰留で撤回されますが、こうして大連立騒ぎは幕を閉じました。幕末の大政奉還との比較で言えば、大政奉還によって徳川家の生き残りを考えたのは徳川慶喜ですが、慶喜に大政奉還を説いたのは土佐藩の山内容堂で、そうさせたのは坂本龍馬でした。坂本は薩長連合の仕掛け人で反徳川の中心人物ですが武力倒幕には反対でした。新時代を作るのは徳川、反徳川の双方から人材を登用する挙国一致体制でなければならないと考えていました。

 07年に大連立を仕掛けたのが小沢民主党代表だとすれば、小沢氏は坂本龍馬の役割を演じた事になります。その提案に自民党政権の生き残りを賭けた福田総理は徳川慶喜です。安全保障政策で民主党に譲歩する決断はまさしく大政奉還に他ならないと私は思いました。しかし大政奉還の直後に坂本龍馬は暗殺され、一方で薩摩の西郷隆盛が仕掛けた謀略で鳥羽伏見の戦いが始まり、龍馬が考えた平和的な政権交代は吹き飛びます。

 大連立も民主党役員の反対で実現せず、小沢代表は責任を取って辞任を表明しました。最終的に辞任は撤回され、現代の龍馬は再び政治の表舞台に戻りますが、現代の徳川慶喜である福田総理は力で政権を奪い取ろうとする民主党に対抗しなければならなくなりました。徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いが始まると総大将にも関わらず大阪から江戸に逃げ帰って隠遁してしまいます。福田総理も1年も経ずに突然辞任を表明して政治の表舞台から姿を隠しました。

 ところで小沢代表はいったん代表辞任を表明しますが、本人は大連立が成就してもしなくともどちらでも良かったのだと思います。成就すれば前に説明したように、民主党議員に官僚コントロールのトレーニングを施し、自民党議員の中から同調者を募ることに利用できましたが、大連立が失敗しても「大連立に前向きだったのは小沢氏ただ一人」という事実は残ります。

 
政権末期に差しかかっている自民党には常に大連立を求める心が存在します。そうなると自民党は大連立に前向きな小沢氏を潰す訳にはいきません。自民党は小沢氏にスキャンダル攻撃をかけることが出来なくなったのです。小沢氏にとってはどちらに転んでもスキャンダル攻撃から身を守ることが出来る。私が大連立を「一石四鳥」と思った理由はここにあります。(続く)

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ニッポン維新(46) 大政奉還と大連立(2)

 渡辺恒雄・読売新聞本社代表取締役会長から民主党の鳩山幹事長に直接「大連立」の働きかけがありました。しかし鳩山氏はその申し出を断ります。参議院で過半数を得た野党がやるべき事は、与党と手を組む事ではなく、速やかに衆議院解散に追い込んで政権交代を果たす事だと考えたからです。


  常識的な考えと言えます。ところがそれとは逆に「大連立」を政権交代に利用しようと考えたのが小沢民主党代表です。小沢氏は現状のままで政権交代を実現しても脆弱な政権となり、自民党の政権復権を容易にすると見て、むしろ「大連立」を政権交代の強化策に役立てようと考えたのです。

  小沢氏がそうした事を考えたのは、かつての細川政権が短命に終わった苦い経験を教訓にしたからだと思います。自民党を分裂させ、宮沢内閣を解散に追い込んだ小沢氏は、衆議院選挙で自民党が第一党になったにもかかわらず、バラバラだった8つの会派を「非自民」の一点で結びつけ、細川政権を誕生させました。自民党は小沢氏の政治力に敗れ、55年体制に終止符が打たれました。国民は自民党単独政権が終った事に熱狂し、細川政権は高い支持率を獲得しました。

  ところが1年も経ずに細川総理は突然政権を投げ出しました。そこから状況は一変します。小沢氏の「剛腕」に対して身内の中から反発が強まり、8会派が集まった新進党はバラバラになり、自民党に付け入る隙を与えました。新進党から社会党とさきがけが離脱し、自民党と連立を組んだ事で、社会党の村山富市氏を総理に担いだ自民党が政権復帰を果たしました。選挙で民意を問うこともなく日本の政治は再び元に戻り、細川政権を作り上げた小沢戦略は失敗に終りました。

  失敗のきっかけは細川総理の政権投げ出しです。その原因は未だに不明ですが、自民党のスキャンダル攻撃によると見られています。自民党は最高権力者のスキャンダルを暴き、それを表には出さずに水面下で「脅し」をかけ、辞任に追い込んだと見られているのです。一方で自民党は8会派を結び付けた小沢氏も攻撃目標にしました。小沢氏に対する反発を煽り、その工作に乗せられた人間と、同じようにその挑発に乗った小沢氏との間に溝が生まれ、それが新進党の崩壊につながりました。

  それから13年が経ちました。参議院選挙で過半数を失った自民党は再び同じ仕掛けをする可能性があります。今度スキャンダル攻撃の最大ターゲットは小沢代表です。その攻撃からいかに身を守るか。それを考えなければ、政権交代を果たしても再び失敗を繰り返す事になります。そして重要な事は民主党が参議院で単独過半数を得ていない事実です。衆議院選挙でいかに勝利しても社民党と国民新党と連立しなければ政権運営は出来ません。しかし社民党と国民新党との距離は大きく、連立はつけ込まれる隙も大きいのです。

  さらに重要な事は、政権を獲得しても霞が関の官僚をコントロール出来なければ、政権交代の実は上がらないという現実です。官僚との駆け引きを経験した事のある議員は民主党に数えるほどしかおりません。小沢氏の目から見るとまだまだ民主党はひ弱で、そのまま政権交代を果たしてもいくつもの難題にぶつかる事が明らかだったのです。

  そこで「大連立」の話に戻ります。与党から見れば、政権運営をスムーズにし、時間を稼いで民主党を分断し、政権交代をさせないための手段です。或いはそのまま55年体制と同様の長期単独政権を作る手段ともなります。そして選挙制度を昔の中選挙区制に戻す手段でもあります。

  ところが小沢氏の考えた「大連立」は全く逆です。連立の条件として民主党の政策を自民党に飲ませ、公明党との連立を解消させ、閣僚枠を獲得して民主党議員に霞が関コントロールの訓練をさせ、自民党を分断して民主党に吸収する事を可能にするための「大連立」でした。

  衆議院議員の任期が切れる09年9月までに総選挙は必ずあります。その時には連立を解消して自民党との違いを明らかにし、自民党を切り崩して同調者を吸収すれば、参議院で足りない数を補うことも可能になり、社民党と国民新党との連立ではなく、単独で政権を獲得する可能性もあります。まさに「一石四鳥」の効果があると私は思いました。(続く)

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ニッポン維新(45) 大政奉還と大連立(1)

 徳川慶喜は、「四賢候」と呼ばれた福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城、土佐藩の山内容堂、薩摩藩の島津成彬らが激動の日本を託せると判断した人物ですから英明な政治家です。徳川幕藩体制を守り続ける事が出来るとは思っていませんでした。従って将軍に担ぎ出された時も、徳川家を継ぐことは了承しましたが、将軍職は固持し続け、周囲から懇請される形にして自らの政権運営を有利にする駆け引きを行いました。


 また慶喜は時勢が読めますから、フランスからの援助で横須賀に製鉄所や造船所を作り、軍制の改革を行うなどの近代化策を打ち出し、さらに実弟をパリ万国博に派遣するなど幕臣のヨーロッパ留学を奨励しました。そして薩長が武力倒幕路線に踏み切るとみるや、天皇に政権を返上する「大政奉還」を決断して平和的政権交代を図ろうとします。

 慶喜が「大政奉還」を決断した背景には、長く政治に関与していない朝廷に政権運営のノウハウがあるはずはなく、政権を返上しても現実に政治を主導するのは徳川になるとの読みがありました。武力倒幕に反対していた坂本龍馬は、慶喜の決断に涙を流し、朝廷側と徳川側の双方から人材を抜擢した挙国一致の政治体制を構想しています。

 しかし直後に龍馬は暗殺され、また西郷隆盛の謀略によって江戸の薩摩屋敷を拠点とする浪人達が江戸市中を荒らし回って幕府を挑発、挑発に乗った幕府が薩摩屋敷を焼き討ちにしたことから鳥羽伏見の戦いが始まりました。すると徳川方の総大将である慶喜は早々に大阪から江戸へ逃げ帰り、そのまま上野寛永寺に籠もってしまいます。これが勝敗の帰趨を決めました。江戸城は無血開城され、徳川政権は終止符を打つことになったのです。

 慶喜の行動には多くの批判があります。しかしあの時本格的な内戦になれば、その直前にアメリカを二分した南北戦争のように簡単には決着が付かなかったかもしれません。しかも徳川にはフランスが、薩長にはイギリスがつく形になり、英仏の代理戦争が日本の国内で行われた可能性もあります。慶喜の行動は日本が欧州列強につけ入る隙を与えないためではなかったかと私には思えます。

 福田康夫氏も民主党といたずらに事を構える政治家ではありませんでした。総理就任直後に自らの政権を「背水の陣内閣」と命名した事からも、自民党政権がこのまま続くのは難しいとの認識が伺えます。その認識に誤りはありません。参議院で過半数を失った自民党には二つの道しかなかったのです。民主党と手を組み協力しながら政権運営を行うか、民主党を分断して一部を自民党に吸収し思い通りの政権運営を行うかです。

 政権交代が実現してしまえば後者を選択するしかありません。かつて細川政権が誕生した時、自民党はあらゆる手段を使って新進党を分断しました。細川総理にスキャンダル攻撃を仕掛けて退陣に追い込むと同時に、新進党の8会派にくさびを打ち込み、社会党とさきがけを自民党側に引き剥がし、社会党の村山富市氏を総理に担いで政権復帰を果たしました。

 しかし福田総理はまだ政権を握っており、その手法を使うわけにはいきません。民主党を分断するにしても分断工作には時間がかかります。その間の政権運営は自民党の責任で行わなければなりません。分断工作をしながらの政権運営では政治は大混乱する事になり、かえって国民の批判を招きます。

 そこで浮上したのが「大連立」です。民主党を閣内に取り込み、政権運営に協力させることで政治的混乱を押さえ、時間を稼いで民主党分断の工作に取りかかるやり方です。中曽根元総理や読売新聞の渡辺恒雄氏らは公然と「大連立」を提唱していました。(続く)

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ニッポン維新(44) 二つの権力

 辞任の記者会見で安倍総理は、「自民党から裏切られた」とか、「アメリカからも見放された」とか、本当の事を言う訳にはいきません。民主党の小沢代表に会談を断られたことを理由として臭わせるのが精一杯でした。しかし会見の最後に「このまま海上給油法案の期限切れを迎えると混乱するので今辞める」という主旨の発言を行いました。11月に辞めれば「国際公約を守れない総理」として世界中に恥をさらす事になります。その事を思うと居ても立っても居られない気持が前代未聞の政権投げ出しになったと私は思いました。


 しかし恥をかくことが嫌で政権を放り出す総理など私は見たことがありません。総理という職業は大変です。陰謀に満ちた外国との戦い、国会運営を巡る野党との戦い、そして何より油断ならないのが身内からの足の引っ張り、それらと365日、24時間対応しなければならないのです。何よりも求められるのはファイティング・スピリットです。リングに上がったボクサーと同じで何発パンチを食らってもギブアップする事は許されません。ボロボロになってもリングから降りられない職業だと私は思っていました。それがあっけなくリングから降りてしまったのです。

 世襲政治家のひ弱さをしみじみ考えさせられました。その時に世襲政治が行き詰まった徳川幕府の最後を思い出しました。260年続いた徳川幕府が何故倒れたかについては、学者や作家によって色々と語られています。徳川幕府が自らの権力を永続させるために封じ込めた「天皇」と「外様大名」と「外国」の三つの勢力が結びついて徳川幕府は倒れたとする見方が一般的です。しかし私は倒幕に立ち上がった人たちの心の中には世襲に対する憎しみが燃えさかり、それが幕府を倒す最大のエネルギーになったと思います。

 吉田松陰は「士農工商」の身分制度を廃して「万民平等」の世を作ろうと考えました。坂本龍馬も「均し(ならし)の世が来る」と人々に平等社会の到来を語っています。福沢諭吉は世襲を「親の仇」と言いましたが、幕臣の勝海舟も世襲を憎んで西郷隆盛に「共和政治の実現」を説きました。そして徳川打倒を叫ぶ者達は徳川体制に組み込まれた藩に見切りをつけ、脱藩して「天皇」のいる京都に集まりました。こうして江戸の幕府に対抗するもう一つの権力が京都に生まれたのです。

 幕末の主役達は江戸と京都を行ったり来たりしながら激動の政治を作り出します。二つの権力の間で幕末史は形作られて行きました。現代の日本も07年の参議院選挙で参議院にもう一つの権力が生まれ、あらゆる法案を否決できる力を野党が握りました。衆議院の過半数を占める与党が思い通りの政権運営を行えない状態です。幕末以来久しぶりに、日本は二つの権力の間で政治が激動する時代を迎えたのです。

 同時に幕末以来久しぶりに世襲政治家のひ弱さがクローズアップされました。ペリー来航以来、国難に対応するため将軍職につくよう周囲から期待されていた一橋慶喜は井伊直弼の反対に遭い、代わって徳川家茂が将軍となりますが若くして病死します。そこで再び慶喜が登場することになります。現代では小泉後継総理として期待された福田康夫氏に小泉総理が反対し、若い安倍氏を総理にしました。しかし安倍政権は短命に終わり、再び福田康夫氏が総理に担ぎ出されて自民党の難局に立ち向かう事になりました。(続く)

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ニッポン維新(43) 安倍総理の政権投げ出し

 自民党結党以来最大の敗北を喫したにも関わらず、安倍総理は続投を表明しました。深く考えての結論だとはとても思えません。早く続投表明をしないと退陣の流れが固まってしまうと考え、それを恐れて続投表明をしただけという印象を受けました。続投して一体何が出来ると思っているのか。すると見るも無惨な事が起こりました。


 安倍総理の続投に対して自民党の他派閥から批判が上がるのは当然です。しかしそれよりも総理を支えるはずの身内から追い落としの行動が現れたのです。その代表が小池百合子防衛大臣でした。参議院選挙直前に「原爆しょうがない」発言をして辞任した久間章生前防衛大臣に代わり、女性として初の防衛大臣に就任した小池氏は、参議院選挙直後に考えられない行動を取りました。アメリカを電撃訪問し、チェイニー副大統領、ライス国務長官らと相次いで会談を行ったのです。

 防衛大臣のカウンターパートは国防長官のロバート・ゲーツ氏です。それが何故副大統領や国務長官と会うのか。通常の外交儀礼では考えられない行動です。安倍総理の代理としての訪米でもありません。安倍総理を超えたところで小池訪米がセットされたと思われます。アメリカ側にとっても安倍総理や麻生外務大臣よりも小池防衛大臣とパイプを作りたかったと思われる訪米です。それらの会談で小池氏はインド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針をアメリカ側に伝えました。

 しかし参議院で過半数を失った与党がインド洋での給油活動を継続するためには、衆議院での再議決が必要となり、60日以上の審議時間を要します。11月1日に期限の切れる給油法案を成立させるためには8月中に審議を始める必要があります。ところが不思議な事に与党の中に早期に国会を開こうという動きがありません。「内閣改造を行うため身体検査には時間がかかる」というまるで嘘としか思えない情報が流され、8月の日本政治は空白状態でした。

 さすがに安倍総理は8月中に国会を開こうとしました。総理秘書官が国会の8月開催を新聞にリークしたのですが、国会対策を取り仕切る二階国対委員長は冷たくその方針を否定しました。「閣僚が決まってすぐに国会を開くわけにはいかない。政策を勉強する時間が必要だ」と言うのが二階氏の意見です。こうして安倍総理は追いつめられていきます。外では給油法案の延長を国際公約し、中ではそれが不可能な国会日程が組まれました。

 さらに小池防衛大臣は防衛省の守屋事務次官を退任させて警察庁出身者を後任に据える動きに出ました。安倍内閣に波乱が起き、塩崎官房長官と小池防衛大臣が対立する騒ぎとなりました。まさに小池氏は安倍総理に対する「刺客」です。小池氏は改造後の内閣に入ることを拒否し、徹底して安倍総理の足を引っ張る行動に出ました。これらの行動は小池氏が一人で出来るものではありません。後ろに小泉元総理の影がちらついています。

  こうした中で参議院選挙からほぼ一ヶ月が経った8月27日にやっと内閣改造が行われました。高村防衛大臣、町村外務大臣、伊吹文部科学大臣など派閥の領袖クラスがずらりと顔を揃える重厚な布陣でしたが、9月10日に国会が召集され、所信表明演説に対する代表質問が予定されていた9月12日、安倍総理が突然辞任を表明するという前代未聞のことが起こりました。(続く)

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ニッポン維新(42) 07年参議院選挙の意味

 2007年の7月29日に行われた第21回参議院選挙はこれまでの日本の政治史を塗り替えるものでした。自民党が改選議席数64議席を37議席に減らし、連立を組む公明党も改選議席数12議席を8議席に減らしました。その結果与党は過半数の121議席に19議席足りない102議席となり、保守系無所属を加えても過半数を越えられない結果となりました。さらに自民党は結党以来続けてきた参議院での第一党の地位を民主党に明け渡しました。まさに自民党政治の終焉を意味する選挙でした。


 ところが当の自民党はこの大惨敗の意味を正しく認識していない反応を見せました。安倍総理が続投を表明したため、党全体がその深刻さを認識する機会を失ったのです。私は安倍総理の続投表明を聞いて、この総理は日本の政治の仕組みを全く知らないのではないかと不思議な気持ちになりました。

 前にも説明しましたが、占領時代に作られた日本の戦後政治は大変奇妙なものです。政治体制はイギリスと同じ議院内閣制なのに、国会はイギリスの本会議中心主義ではなく、大統領制のアメリカ議会と同じ委員会中心主義を採用しています。まるでイギリスとアメリカの政治制度を接ぎ木したような仕組みです。

 さらに奇妙なのが参議院の存在です。イギリスもアメリカも二院制ですが、両国の二院制は原理が全く異なります。イギリスは世襲の貴族院と選挙で選ばれる下院の二院制で、貴族院には決定権がないため事実上の一院制と言えます。アメリカは小選挙区から選ばれる下院と各州から2名選ばれる上院からなり、内政は下院に外交は上院に優先権があります。二つの院の選ばれ型と役割に違いがあります。ところが日本の二院制は、衆議院と参議院が「カーボンコピー」と呼ばれるほど良く似ていて、しかも衆議院が上位のように見えながら実は参議院の議決が重いのです。

 総理大臣を選ぶのも予算を通すのも憲法上は衆議院が優先されます。しかし全ての法案は参議院で否決されると廃案になるのです。参議院の決定を覆すには衆議院で三分の二の賛成が必要とされ、極めてハードルが高いのです。現在は郵政選挙のお陰でたまたま与党が衆議院で三分の二を持っています。しかしだからと言って全ての法案を再議決するのには時間と手続きが必要です。つまり衆議院と参議院では原理的に参議院の方が強い仕組みになっているのです。

 かつて長期政権を実現した佐藤栄作氏は「参議院を制する者が日本の政治を制する」と言いました。また自民党の中では参議院の実力者を「天皇」とか「法皇」とか呼ぶ慣わしがあります。総理よりも参議院の実力者の方が強いという意味です。自民党はその参議院で第一党の地位を失ったのですから大変なことになったのです。しかも参議院には解散がないので、直ちに選挙で挽回する訳にもいきません。6年後の参議院選挙まで挽回のチャンスは来ないのです。

 そんな状態に陥ったのに安倍総理は続投を表明しました。私が「何も分かっていないのではないか」と思ったのはそのためです。とにかく政権運営はとてつもなく難しくなりました。こうなると自民党は民主党の要求を受け入れて協力しながら政治をやるか、或いは民主党を分断して自民党に引き込むかしかありません。分断をするためには民主党に対し「アメ」と「ムチ」の政策が必要になります。露骨に言うと「買収」か「脅迫」で切り崩すしかないのです。

 長く自民党を見てきた私は「これから自民党は全力を挙げて民主党のスキャンダル探しをやるだろう」と選挙結果を見て思いました。(続く)

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ニッポン維新(41) 維新前夜

 日本の近代は1853年(嘉永6年)の「ペリー来航」に始まります。250年以上も平和を享受してきた日本は開国を迫るアメリカの力の外交によって一気に激動の時代を迎えました。平和を維持するために徳川家康が作り上げた数々の仕組みが音を立てて崩れていきます。士農工商の身分制度で人民を縛り、世襲制によってそれを固定化し、徳川家の地位を脅かす皇室や外様大名を政治から遠ざけ、徳川家が外国との交易を独占するために鎖国を行ってきましたが、それらの仕組みの底流に沈殿していた不満のマグマが堰を切ったように噴出しました。


  維新の先駆者である吉田松陰を突き動かしたのは「万民平等」の思想です。彼は天皇に権力を戻すことで「一君万民平等」の世を作ろうとしました。その思想は長州藩でクーデターを起こした高杉晋作の「奇兵隊」など身分を越えた軍隊の創設にも現れます。幕府の側でも下級武士から海軍奉行にまで上り詰めた勝海舟は世襲制度を憎み、共和政治の実現を希求して徳川打倒を叫ぶ若者を周囲に集めて世界に目を向けるよう指導しました。その教えを受けた坂本龍馬は選挙による議会政治を構想します。こうして明治維新までの15年間、日本には新たな秩序を求めて血なまぐさい権力闘争が繰り広げられ、下克上の時代を迎えたのです。

 戦後の日本もまた冷戦体制の恩恵を受けて長い平和を享受しました。アメリカによってソ連に対する防波堤と位置づけられた日本は、米軍の補給基地の役割を果たすために工業国家として復興されます。軍備をアメリカに委ね、経済のみに力を注いだ日本は、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需によって世界屈指の工業国となり、自動車と家電製品の輸出によって外貨を稼ぐ仕組みを作りました。それが世界を驚かせる高度経済成長をもたらしたのです。

 高度成長を可能にしたカラクリは戦時中に作られた官僚主導の統制経済モデルにあります。官僚が司令塔となり、政治が協力して、経済界を指導する仕組みです。それには政権交代を行わない政治、官僚の行政指導に逆らわない民間企業、そしてその体制を「戦後民主主義」と国民に思わせるメディアが必要でした。いわば戦後版「国家総動員態勢」によって日本は世界との経済戦争に打ち勝ったのです。

  しかし20世紀末に冷戦体制が崩壊すると、日本経済の高度成長も終焉の時を迎えました。唯一の超大国となったアメリカは、日本経済の強さの秘密を解明し、官僚主導の統制経済モデルを批判するようになりました。アメリカの日本経済「封じ込め戦略」によって日本は国の仕組みを抜本的に変える必要に迫られました。こうして90年代の初めから政権交代可能な政治体制の確立と官僚主導からの脱却が日本政治の最大課題となったのです。1993年の自民党分裂と細川政権の誕生はそうした意味で幕末の「ペリー来航」にも匹敵する歴史的な出来事です。

  それから15年、日本の政治はまさに「幕末」と同様に激しい権力闘争の渦中に投げ込まれました。人の血こそ流れませんが、謀略と裏切り、「敵の敵は味方」という目まぐるしい権力の有為転変は、軽薄なる学者、評論家、ジャーナリストらが「混迷」とか「漂流」と言って批判する「後ろ向きの政治」ではありません。これこそが次なる時代を生み出すための「産みの苦しみ」で、「幕末」的な混乱なのです。

 幕末の激動は「最後の将軍」と呼ばれる徳川慶喜が将軍職に就いた1867年に最終段階に入りました。同じように現在の激動は2007年の参議院選挙で与党が過半数割れを起こした時から最終段階に入ったと私は見ています。そこで2007年からの日本政治の動きを「維新前夜」という視点で捉え直してみようと思います。それによって現在の我々が歴史の節目に立っている事を認識出来るからです。我々の日々の選択が日本の歴史を作り変える事を実感して貰うため「維新前夜」の政治の動きを同時進行でドキュメントしていきたいと思います。(続く)

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ニッポン維新(40) 政治改革より国会改革を

 アメリカ政治が1970年代に深刻な危機を迎えたように、ここ10数年の日本政治も国民の政治不信に直面しています。アメリカはベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件の教訓から「政治プロセスを透明化する」という政治改革に取り組みました。日本の政治不信は、戦後の高度成長が冷戦の終焉と共に終わりを告げ、その後の進むべき進路を見出せないところにあります。


  アメリカはベトナム戦争の失敗を分析し、「共産主義との戦いは正義だ」との姿勢を改めました。「反共主義」ではなく「民主主義」を政治の旗として掲げるようになりました。また大統領の秘密工作が批判を浴びた事から、税金で成り立つ分野の「透明化」に取り組みました。それによって政治家、官僚、司法関係者らの資産公開、行政情報の公開、議会と裁判のテレビ公開などが実現しました。

  日本経済の高度成長は、自民党政権が官僚機構と手を組み、戦時中に作られた「1940年体制」を推進したことにあります。「官」が司令塔となり、「政治」がそれに協力し、民間企業を統制経済の下に置きました。自動車と家電製品の輸出を国が主導して外貨を稼ぐ仕組みが作られました。その裏側で農業が保護を要する産業に切り捨てられました。これには政権交代を求めない野党と、それを民主主義だと国民に信じ込ませるメディアの存在が必要でした。こうして国民は一致団結して戦時体制さながらの統制経済に邁進したのです。

  しかし輸出主導型の日本経済は世界に倒産と失業をもたらしました。アメリカ国民は日本経済をソ連の軍事力を上回る脅威と受け止めました。冷戦体制の終焉と共にアメリカは本格的な日本経済切り崩しを始めます。アメリカは日本経済の構造を徹底分析し、自民党と官僚機構の癒着に厳しい目を向けるようになりました。日本の官僚機構を公然と批判し、日本政治に官僚支配からの脱却を迫りました。こうして高度成長を支えた「1940年体制」、すなわち政官財が一体となった統制経済モデルは「アメリカの敵」となったのです。

  日本に政権交代可能な政治体制を作る必要が出てきました。政権交代を繰り返しているアメリカやイギリスの選挙制度は「小選挙区制」です。日本でも「中選挙区制」を「小選挙区制」に代える「政治改革」が叫ばれました。しかし選挙制度を変えて二大政党が出来ても、現実の政権交代がなければ意味はありません。政権交代を求めなかった社会党に代わって、権力を追及する民主党が野党第一党になりました。

  しかし民主党が政権を握ってもそれだけで官僚支配はなくなりません。民主党が官僚機構に依存すれば官僚と癒着してきた自民党政権と同じ事が繰り返されます。霞ヶ関の官僚機構と政党との関係を抜本的に変えなければ政権交代の意味はありません。これまでの自民党政権は政治が優位にあるように見せかけながら、実は官僚が全ての政策を立案し、人事も全て官僚の側が決めてきました。そこを変えなければ日本の政治は変わらないのです。

  そのための改革は「マニフェスト選挙」などの「政治改革」ではありません。「マニフェスト選挙」はイギリス型の民主主義ですが、アメリカ型の国会を持つ日本では構造的に無理があり、見せかけだけに終わる可能性があります。それより大事なことはこれまでアメリカ議会と国会とを対比しながら説明してきたように、まずは政党政治の拠点である国会を官僚支配から解放する事です。

  法案の作成を霞ヶ関に丸投げせず、政治主導で立法する仕組みを構築する必要があります。そのためには政党や政治家が官僚機構と対等以上の情報収集能力を持たなければなりません。アメリカ議会にある議会調査局や議会予算局の存在はその手がかりを示しています。日本の国会を官僚機構に劣らない真の立法府にする「改革」こそが日本政治の行き詰まりを打開する第一歩なのです。

  もう一つ大事なことは官僚の人事権を政治が握る事です。これまでは大臣に人事権がありながら実態は違いました。霞ヶ関の官僚機構は自分たちの都合で人事を決めてきました。官僚の人事に介入しようとした政治家は手痛い反撃を受けて排除されました。それが政権交代のない時代の政治と官僚との関係でした。しかし政権交代が現実になれば、その度に官僚は異なる政党の政策を受け入れなければなりません。官僚は自らの政策を捨てて政党の政策に従うか、あるいは政権交代と共に官僚も交代する必要が出てきます。いずれの場合も政治の側が官僚の人事権を持たなければ円滑な政権運営は出来ません。

  そして議会の人事承認権を拡充する必要もあります。例えば日本から世界各国に派遣される大使がどんな人物か、今まで国民は知らされてきませんでした。しかし国を代表し、国益を担って外国に赴く大使がどのような人物かは国会で審査する必要があります。官僚に勝手に決めさせず、国民の代表がその適格性を判断すべきなのです。

  さらに国会が官僚の仕事ぶりを監督する権限を持つ必要があります。北欧諸国の議会では、国民が行政の問題点を議会に訴える仕組みがあります。国民の訴えで議会に所属するオンブズマンが役所を調査する事になります。議会には行政を調査する権限があり、役所は議会にあらゆる情報を開示しなければなりません。司法による不正の摘発とは別に、立法府が行政府を監督するようになれば、行政がおのずと国民の方を向くことになります。

  政党政治の拠点は国会です。今からおよそ120年前に薩長藩閥政府の弾圧を受けながら大日本帝国議会が誕生しました。長く鎖国を続けた東洋の島国がそんな昔に議会制度を取り入れたのは奇跡だと言われています。しかし藩閥政府は議会を無視する「超然主義」の立場を取り、戦前に於いては議会が日本の政治を主導することはありませんでした。戦後もGHQが官僚の力を借りて占領政策を行ったため、官僚主導の政治体制は変わる事がありませんでした。しかし今、本格的な政権交代が目の前に来ています。明治維新で実現しなかった坂本龍馬の理想が現実になり、議会政治が日本の権力構造の中心に座る機会が訪れているのです。

  国民が政権交代を実現させた暁には、国民は政治家が速やかに国会改革に取り組むよう要求すべきです。その事がこれからの日本を作るために何よりも重要です。日本国民の知恵を政治に反映させるためには政治と官僚との関係を作り替える必要があるからです。それがこの国の衰退をくい止め、国際社会での存在感を高める唯一の方法です。政権交代を実現し、国会改革を成し遂げることこそ「ニッポン維新」であることを胸に刻みつけて頂きたいと思います。(続く)


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ニッポン維新(39) 国会と官僚支配(7)

 日本の国会は戦後GHQの占領下で作られましたからアメリカ議会を真似ています。そのため議会調査局(CRS)と同じ組織が日本にもあります。国会図書館にある調査立法考査局がそれです。議員の立法を助けるための組織です。しかしほとんど利用されていません。なぜなら日本では霞ヶ関の官僚機構が立法作業を行い、霞ヶ関にだけ情報が蓄積されているからです。


 アメリカ議会の議会調査局は70年代半ばまでは150名規模の体制でした。しかしベトナム戦争に敗れ、戦争に踏み切った理由を反省したとき、ペンタゴンやCIAの官僚情報に頼りすぎた事に議員達は気付きました。議員達は議会も独自の情報を持つべきだと考え、議会調査局を800人規模に拡大しました。従ってアメリカの議員は行政府の官僚情報、議会調査局の情報、そして政党もシンクタンクを持っていますから、シンクタンク情報、また学者からの情報と多様な情報源を駆使しながら政治判断を行っています。

 ところが日本の調査立法考査局は依然として150名程度の体制で、独自に情報収集活動を行ってはおりません。調査立法考査局も霞ヶ関の情報に頼らざるを得ないのが実状です。霞ヶ関は与党のしかるべき議員にだけは極秘情報を教えます。しかし野党議員には教えません。野党議員が調査立法考査局に情報収集を依頼すると、調査立法考査局は霞ヶ関に情報提供を依頼し、霞ヶ関は与党に提供するより程度の低い情報だけを調査立法考査局に提供します。つまり調査立法考査局はアメリカ議会を真似て存在はしているものの意味のない組織になっているのです。

 アメリカは政権交代が行われる国ですから、政府が野党に情報提供しないことはあり得ません。そんな事をすれば政治が機能しなくなり、自分達の首を絞めることになります。国民の税金を使って官僚が集めた情報は与野党双方に分け隔てなく提供されます。第一に与党と野党に情報の差があれば、議会での議論は噛み合わなくなり、不毛な議会になってしまいます。

 アメリカ議会ではしばしば「秘密会」が開かれます。軍事問題や外交案件など他国に知られると困る問題を議論するときに開かれます。国民やメディアの前では明らかに出来ない議論を議員だけで行います。そこには与野党の議員が守秘義務を課せられて出席します。国民に公開しなくとも、国民の代表である与野党の議員に公開すれば、政府が情報公開の義務を怠った事にはなりません。

  ところが日本の国会で「秘密会」は開かれた事がありません。これは一体何を意味しているのでしょうか。官僚が野党はおろか与党議員にも秘密情報を知らせていない可能性があるのです。官僚の世界だけであらかじめ国の方針を決めてしまい、それに同意する議員にだけそっと知らせて、国会の議論を自分たちの思い通りに誘導している可能性があるのです。これでは国会の存在理由がありません。しかし誰もその事を指摘しないのです。

  アメリカ議会が70年代半ばに作った議会予算局(CBO)に見合う組織は日本の国会にありません。日本では財務省が作った予算案を通すか通さないかだけで与野党がせめぎ合います。行政府が作った予算案に対置する議会の予算案が示される事はありません。しかも前に説明したとおり、予算委員会は「何でも議論する委員会」になっているため、予算以外の議論にエネルギーが割かれます。財務省の予算案は原案通りに成立することが多いのです。まさに霞ヶ関の思うつぼ、それが日本の国会なのです。(続く)


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ニッポン維新(38) 国会と官僚支配(6)

 アメリカでC−SPANの放送が始まったのは1979年ですが、それには二つの理由がありました。一つはベトナム戦争の敗戦とウォーターゲート事件による国民の政治不信、もう一つは従来のテレビとは異なるニューメディアの登場です。


 ベトナム戦争は「正義だ」と信じて介入した「共産主義との戦い」が、ベトナム民衆の支持はおろか世界中から非難されて無惨な敗北を招きました。ウォーターゲート事件は国民の選んだ大統領が盗聴疑惑で辞任するというショッキングな出来事でした。アメリカ国民は民主主義の何を信じたら良いのか分からなくなりました。その時生まれたのが「腐敗は光の当たらない所に生まれる」という考えです。「日の光が当たるところに腐敗は生まれない」を合い言葉に政治プロセスの透明化を求める運動が起こりました。「サンシャイン・リフォーム」と言います。政治家をはじめ行政府や司法など税金で仕事をする人間の資産公開、行政符の情報公開、そして議会も審議過程をテレビで公開することになりました。

 議会のテレビ中継はそれまで大統領の議会演説だけを既存のテレビ局が中継してきました。視聴率を気にするテレビ局にとって議会中継は積極的にやりたい番組ではありません。しかし70年代後半のアメリカにはケーブルテレビという新しいメディアが誕生しました。こちらは30チャンネルを月額30ドル程度で視聴させる有料放送です。30チャンネルを束ねて売るので、その中に視聴率の取れないチャンネルがあっても、既存のテレビにはないユニークさを売り物にすることが出来ます。

 ケーブルテレビの専門雑誌を編集していた男が議会中継専門チャンネルを企画し、それにケーブルテレビ会社の社長達が賛同してC−SPANが誕生しました。当初は議員達の中に嫌がる者もおりました。「顔の良い議員だけが得をする」とか、「ネクタイを気にしなければならなくなる」と言って反対しました。しかし国民の政治不信の高まりの前にそうした反対論は吹き飛びました。下院の本会議で三分の二の議員が賛成し、1979年3月、C−SPANは放送を開始しました。

  放送が始まってみるとそれまでの心配が杞憂であることが分かりました。国民は決してパフォーマンスの議員を支持することはなく、むしろ地味でもこつこつ勉強してきた議員が名前を知られるようになりました。次第にC−SPANは「アメリカ民主主義にはなくてはならない存在」と言われるようになりました。

 私が最も感心したのは、C−SPANが若者の政治教育に力を入れていることです。選挙権のない学生の政治討論番組を放送したり、大学と高校に議会審議を教材に使うように働きかけています。日本の若者にどれだけの政治教育が施されているかを考えると、この日米格差に心が寒くなる思いがしました。

 アメリカ議会では現実に起きている問題の当事者を議会に呼んで「公聴会」を開きます。議員同士が議論するだけでなく、学者、官僚、有識者を巻き込んだ議論が行われています。湾岸戦争の時には、戦争に突入すべきかどうかで200人近い証人が議会に呼ばれました。

 さらにアメリカ議会には行政府に対抗できるシンクタンク機能があります。議会図書館にある議会調査局(CRS)には800人規模の研究者がいます。彼らは議員の立法活動を支えるため世界中を飛び回って情報収集します。日本でオウム事件が起きた時などオウムの支部があった国のすべてに調査員を派遣しました。議会調査局はベトナム戦争後の70年代半ばに機能が強化されました。あの戦争の誤りは議員達がCIAとペンタゴンの情報だけを信じたためであるという反省が議会の情報機能を強めました。

 また議会には大統領が作る予算案をチェックし、法律としての予算案を作るために議会予算局(CBO)があります。これも70年代半ばに出来ました。250人ほどの専門家が経済予測や経済推計を行い、大統領の予算案の分析、議会の予算決議の作成などを行います。財務省が作成した予算案に対抗する予算案を作れない日本の国会とは大違いです。

 戦後の日本はイギリスと同じ議院内閣制でありながら、国会だけはアメリカと同じ委員会中心主義をとっています。しかし中身はアメリカと大違いです。アメリカ議会は大統領府や行政府に対して同等かそれ以上の権限と組織を持っています。しかし日本の国会はとても行政府に対抗できない組織です。ここに日本政治の最大の問題があります。(続く)
 

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ニッポン維新(37) 国会と官僚支配(5)

 TBSのドキュメンタリー番組で欧米の議会チャンネルの現状を取材することにして、私はイギリスに向かいました。ベルリンの壁が崩れる頃で、ヨーロッパは新しい時代を迎える熱気に包まれていました。

  テムズ川のほとりに立つイギリス議会の議事堂はビッグ・ベンと呼ばれ、ロンドンの観光名所となっています。18世紀初頭に世界に先駆けて議会制度を作ったことからイギリス議会は「議会制度の母」と言われます。そのイギリス議会はテレビ中継に慎重でした。1960年代からテレビ中継を認める法案が何度も出されましたが、時期早尚として否決されてきました。理由は議員がテレビを意識してポピュリズムに陥りやすいこと、またテレビはジャーナリズムであるため編集される事に対する懸念でした。

  しかしアメリカに誕生したC−SPANは「編集をしない」事を宣言し、審議をあるがままに中継することを絶対の方針にしています。それならばイギリス議会もテレビ中継に踏み切っても構わないと判断されました。1989年11月、イギリスにC−SPANを真似たパーラメンタリー・チャンネルが誕生しました。

  議会が招集される日、英国女王がバッキンガム宮殿から馬車で議会に到着し、開会を宣言します。その模様からパーラメンタリー・チャンネルの放送が始まりました。イギリス議会は戦前の大日本帝国議会と同じで本会議中心主義です。本会議場は与党と野党が向かい合う形でベンチのような座席に座り、議場の中央にある演壇を挟んで与党側の最前列には閣僚、野党側の最前列には「影の内閣」の閣僚が対峙します。与党と野党を分ける演壇の幅は剣と剣の切っ先が触れ合う距離と言われ、昔は剣で決めたことを言論で決することを意味します。

  演説の度に野次が飛ぶ議場には活気があり、民主主義の議会は上品なセレモニーの場ではなく、国の方針を巡って荒々しく対決する場である事を感じさせました。一方で本会議場の議席数が議員の数より少ないのは、議員が全員出席することなどあり得ないからです。本会議に出席する事が議員の最重要の仕事とされる日本とは大違いです。イギリスの方が大人だと言うことでしょうか。

  イギリス議会では法案の採決を巡って本会議場で議論を重ねますが、議員には「党議拘束」が掛かるので法案が成立することは確実です。しかしだからと言って原案通りに成立させるのではなく、少数野党の意見も採り入れてより良い修正を施します。「議会制度の母」と呼ばれるイギリス議会の仕組みには教えられる事が多くありました。

  一方、イギリスと違って委員会中心主義のアメリカ議会は、日本の国会と同じ仕組みですが、日本と最も違うのは「党議拘束」がないことです。従って採決の帰趨は全く予断を許しません。採決が確定するまで1票を巡ってスリリングな攻防が繰り広げられます。議場での演説や裏舞台での攻防が熱を帯びます。「党議拘束」があって初めから採決の結果が分かっている日本の国会とは大違いです。


  採決の仕方も、日本のように全議員を集めて議場を閉鎖して行うのではなく、議員は決められた時間までに投票すれば良いため、手の空いた時間に本会議場に来て投票します。議員の仕事は本会議場で投票する事だけではないと考えられていることが分かります。日本の国会が形式にこだわり、セレモニーに終始しているだけのような気がしてきて、「日本の将来は大丈夫か」という思いに捕らわれました。(続く)


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ニッポン維新(36) 国会と官僚支配(4)

 NHKの「国会中継」が野党のスキャンダル追及と審議拒否に利用されていた話を書きました。NHKが行う委員会中継が予算委員会に限られている「慣例」についても書きました。そして予算以外の法案は限られた時間の中でベルトコンベアーに乗せられたかのように次々成立していく事情も説明しました。法案を作成しているのは官僚です。その官僚が私にこう言った事があります。「私が鉛筆をなめなめ書いた法案が上がるのはうれしいが、ろくな審議もないままに成立させて、これで日本の将来は大丈夫なのだろうか」。


 与党議員の中からも国会の異常さについては疑問の声が上がっていました。私はNHKが予算委員会の一部しか放送しないところに問題があると思いました。予算委員会の最初の2,3日しか中継しないから、野党はそこで国民にアピールしようと思い、スキャンダル追及に走る。すべてを中継すれば、スキャンダル追及ばかりする訳にもいかなくなる。まして審議拒否など出来なくなる。なぜNHKは国会のすべての委員会を中継しないのか。

 答えは「慣例です」、そして「NHKは総合放送局なのでドラマもニュースも歌謡番組も放送しなければならない。国会ばかりを放送できない」と言うものでした。「でもNHKは公共放送ではないのか」と思いましたが、NHKは国会中継を今まで以上には出来ないと言うのです。それではスキャンダル追及も審議拒否もなくならないと思いました。そこで私は海外ではどうしているのかを調べました。

 日本がお手本にする国は常にアメリカですから、まずアメリカを調べました。するとC−SPANという議会中継を専門に行う政治専門チャンネルがあることを知りました。1988年のゴールデンウイークに休暇を利用してワシントンDCのC−SPANを訪れました。C−SPANは日本の放送局に比べたら話にならないほど小さな放送局でした。従業員は200人いますが、学校放送に毛の生えた程度の設備と広さしかありません。しかし放送の中身を見てびっくりしました。私が訪れた時、ハンガリーの議会審議を放送していたのです。

 当時は東欧に民主化の嵐が吹き荒れていました。戦後の冷戦体制が終焉の時を迎えていました。東欧の政治情勢はニュースでは放送されていましたが、議会をそのままアメリカで放送しているとは思いませんでした。政治専門チャンネルだからこそ出来ることです。勿論C−SPANはアメリカ議会の審議も中継しています。数ある委員会の中からC−SPANが国民に最も見せるべきだと判断した委員会を取り上げて放送しています。それ以外に政治家をスタジオに呼んで、視聴者が電話で質問をする「コール・イン」という生番組も毎日放送していました。

 日本では国会が国民に見せると決めた予算委員会の一部しか放送されません。しかしアメリカでは放送局が自分で選んだ委員会を国民に見せています。議会が見せたいものを国民に見せるのではなく、国民が見たいものを国民に見せているのです。政治家が出演する番組も、政治家が言いたいことを一方的に垂れ流すのではなく、視聴者が聞きたいことを直接質問することが出来ます。しかも電話は誰でもが自由にかける事が出来、C−SPANは選別をしません。電話がかかってきた順番につないでいきます。内容のチェックもしません。時にはおかしな質問や、放送禁止用語も飛び出します。しかしC−SPANはそれらを一切気にしません。

 政治と国民の距離、メディアと国民との関係が日本とはまるで違う。私は衝撃を受けました。そしてC−SPANの人間によると「議会制度の母」と呼ばれるイギリス議会が、C−SPANの社長を議会に呼んで説明を聞き、イギリスでもC−SPANの様なテレビ中継を始めると言うのです。どうやら議会中継の専門テレビ局が欧米では実現する傾向にある事が分かりました。私はイギリス議会にも行くことにしました。(続く)

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ニッポン維新(35) 国会と官僚支配(3)

 55年体制時代の予算委員会はさらに特殊なものでした。そこでは決まってスキャンダル追及が行われ審議が止まりました。NHKは予算委員会の最初の2,3日しか放送しないので、野党がそこで最も国民にアピールしようと考えるのは当然です。野党には「爆弾男」と異名をとる議員がおり、放送中に必ず政府与党のスキャンダルを暴露しました。


 国民も予算の中身よりスキャンダル追及を期待し、「爆弾男」のスキャンダル暴露に拍手を送りました。予算委員会を取り仕切る旧大蔵省にしてみれば、自分たちの作った予算案に野党の関心が向かわず、スキャンダル追及に力を入れてくれれば、予算が原案通りに成立する事になりますから大歓迎です。

 55年体制ではこうして予算委員会の度にスキャンダル追及が行われ、政府与党が答弁に窮すると、それを理由に野党が審議拒否に入る事が常態化しました。それをメディアは「与野党激突」と報道し、あたかも与野党が対立しているかのように見せつけました。本当の事を言えば、審議拒否は計算されたもので、その背後では与野党の裏取引が行われていたのです。

 前にも説明したとおり、当時は政権交代を行わないことが与野党間の暗黙の了解でした。従って野党は与党を政権から引きずり降ろすためにスキャンダルを追及したのではありません。目的は別のところにあります。審議を止めて裏取引をする事が最大の目的でした。

 NHKの「国会中継」がなくなる頃に決まってスキャンダル追及で審議が止まります。国民は放送がなければ審議が止まった後の国会の様子を見ることは出来ません。国民の目の届かないところで、与野党の交渉が裏舞台へと移ります。

 裏舞台で行われていた事は、与党と野党が法案だけでなくあらゆる問題を交渉の俎上に乗せて取引をすることでした。例えば野党からは労働組合の賃上げやストライキの処分撤回などの要求が出されます。見返りに与党は政府が提案している法案の成立を求めます。そうした交渉の結果、国会に提案されている法案の帰趨が、議論もされないうちから決まっていくのです。どの法案を成立させ、どの法案を継続にし、どの法案を廃案にするかが決まります。

 この裏交渉は与党と野党の幹部が1対1で秘かに行います。ですから国会議員も知りません。「国会対策委員会」のごく1部の幹部だけが知っています。国会議員は上からの指示で与野党交渉に汗をかきますが、交渉はその裏側で秘かに行われるのです。交渉がまとまると議員達には内容は知らされずに指示だけが降りてきます。国会議員は何も知らないままに動かされているのが日本の国会でした。

 予算委員会は順調な場合、衆議院で2月末まで、参議院では3月一杯まで開かれます。前にも言いましたが、この期間に他の委員会は一切開かれません。日本の国会には憲法で会期があります。通常国会は150日間と決められていますから、予算以外の法案を審議する時間は衆議院で100日あるかないかです。参議院だと70日程度になります。その間に100本近い法案が審議され、成立することになります。法案審議に時間さえかければ良いとは思いませんが、それにしても短時間で国の方向が決まるのです。

 因みにアメリカ議会の会期は選挙から選挙までです。下院議員が選挙で選ばれて任期を終えるまでの2年間が一つの会期です。夏休みやクリスマス休暇などの休会はありますが、閉会はありません。従って法案審議には長い時間をかけることが可能です。国会の会期制は憲法によって定められ、官僚が国会を牛耳るために作られた制度ではありませんが、結果的に法案を作る官僚には都合の良い仕組みです。

 与野党の裏取引は現在はありません。政権交代を狙う野党が誕生したことで、法案を取り引きすることはなくなりました。そのため「爆弾男」もいなくなりました。スキャンダルを問題にすることがすべて悪いとは言いませんが、予算委員会でスキャンダル追及をする事はやはりまともではありません。予算委員会では予算の審議をするという本来の姿に戻って欲しいものです。しかし裏取引はなくなったものの予算委員会を特別にしている仕組みは今でも続いています。(続く)

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ニッポン維新(34) 国会と官僚支配(2)

 日本の国会がアメリカ議会と違う第二の特徴は、予算委員会が特別の存在になっている事です。アメリカ議会にも予算委員会はありますが他の委員会と同格で特別ではありません。ところが日本ではまるで違うのです。


 予算委員会は予算案の中身が適切かどうかを審議する委員会です。予算案を作成するのは日本では財務省ですから、財務大臣が出席し、予算の中身を説明して野党との審議を行えば良い訳です。ところが予算委員会の初めの2,3日を「基本的質疑」と呼び、そこには総理大臣以下全大臣の出席が義務づけられています。

 予算案には全役所の給与が関係していると言うのが表向きの理由です。しかし実際に役所の給与について審議されたことなどありません。では何故全大臣が出席するかと言えば、予算委員会が予算に限らずあらゆる問題を議論するところだからです。そしてその議論はNHKのテレビとラジオで全国に中継されます。国民が「国会中継」と思って見ている委員会は予算委員会なのです。つまり予算委員会は国会のすべての委員会を代表する委員会であり、国民に見せるための委員会なのです。逆に言うと国民は予算委員会以外の委員会を見せられていない事になります。

 何故この様な仕組みがあるのかを誰も答えてくれません。NHKに「なぜ予算委員会以外の委員会を中継しないのか」と聞いても「慣例です」としか答えません。これが戦後に作られた国会の仕組みなのです。そこで私の想像ですが、占領体制下においてGHQが官僚機構の中心に据えたのは大蔵省(現財務省)でした。GHQは「民主化」の名の下に、戦前権力を握っていた内務省を解体し、大蔵省を「役所の中の役所」に据えました。その「役所の中の役所」が取り仕切る委員会が予算委員会なのです。

 予算委員会が開かれている間、他の委員会は一切開かれません。それほどに予算委員会は特別の存在です。その予算委員会には大蔵省から官僚達が連日出向いて仕事をします。委員会に所属する与野党議員をマン・ツー・マンで担当し、審議の行方を陰から「監視」、「監督」するのです。国会対策は官僚にとって役所の仕事以上に重要です。大蔵省が国家権力の中枢であり続けるためには、国会を牛耳ることが肝要なのです。誰も口にはしませんが、予算委員会が国会の中でこれほど偏重される裏にはそうした事情があると思います。日本が官僚国家であり、その中でも旧大蔵省が権力の中心であることを予算委員会が物語っています。

 NHKが全国中継をするため、予算委員会は他の委員会とは比べものにならないくらいショウアップされます。野党は党を代表する幹部クラスが質問に立ち、政府側も総理を中心に主要閣僚が答弁に立ちます。野党は最も国民にアピールするテーマを取り上げて激しく政府を攻め立てます。イギリス議会が毎週30分間行っている「党首討論」のような与野党対決が、日本では予算委員会の「基本的質疑」で行われてきました。こんなに特別の委員会はアメリカ議会にはありません。他の国にもないと思います。まさに日本独得です。日本には予算の議論をしない予算委員会が存在するのです。(続く)


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ニッポン維新(33) 国会と官僚支配(1)

 戦前の政治史は官僚と政党との戦いの歴史でした。政党政治の拠点は議会ですから、議会と政府との戦いの歴史だったと言うことも出来ます。坂本龍馬が構想した議会政治を実現しようとする自由民権運動は維新後23年を経てようやく大日本帝国議会の実現にこぎ着けます。ところが薩長藩閥政府の側はその前年に黒田清隆総理が「政府は議会に制約されない」と一方的に宣言、「超然主義」と言われる立場をとりました。


 第一回総選挙で民権派が多数を占めたにも関わらず、官僚が作った予算案が議会の反対を押し切って執行されました。これに反発した中江兆民らは衆議院に辞表をたたきつけて議員を辞しています。藩閥政府による議会無視はその後も続きますが、しかし伊藤博文は次第に「超然主義」に行き詰まりを感じ、後に「政友会」を結成して初代総裁となり、政党政治の側に身を置きます。

 一方で資本主義の発達は国民に自由と民主主義の風潮をもたらし、大正デモクラシーが花開きました。大正7年には政友会総裁の原敬が内閣総理大臣に就任し、日本に初めて官僚ではなく選挙で選ばれた議員が組織する政党内閣が誕生しました。原敬は金権政治家と批判され暗殺されますが、その後には普通選挙法も制定され、いよいよ日本にも議会政治が根付くかと思われました。しかし世界を襲った大恐慌は資本主義に対する反発を招き、共産主義や国家社会主義が台頭して、第二次世界大戦への道が開かれます。日本も一人一殺のテロや「2・26」に代表されるクーデターが起きて、軍部が政治の世界に影響力を及ぼし政党政治は圧迫されていきます。そして戦時体制の下、1940年には政党がすべて「大政翼賛会」に統合されました。

 敗戦後、日本を占領したアメリカは日本の民主化に取り組みました。大日本帝国憲法に代えて日本国憲法を、大日本帝国議会に代えて国会を作りました。それでは戦後は官僚主導政治から政党主導政治に代わったのでしょうか。そこが問題です。残念ながら戦後の日本も官僚主導の政治が続きます。これまで説明してきたようにむしろ戦前よりも官僚の力が強くなったかもしれません。

 「超然主義」もなくなり、国会は憲法によって「国権の最高機関」と位置づけられたのに、それでも官僚が強いのは何故でしょうか。それを解き明かさなければなりません。そこで政党政治の本拠地である国会に注目します。

 現在の国会が戦前の大日本帝国議会と違うのは、イギリスと同じ本会議中心主義からアメリカと同じ委員会中心主義に変わった事です。大統領制のアメリカが日本の国会を自分たちと同じ仕組みに変えました。日本は議院内閣制なのに、国会だけがアメリカ型になりました。そのため奇妙なことが起きていることは前に説明しました。

 それでは日本の国会は全くアメリカと同じかというとこれも違います。アメリカは官僚国家ではありませんから、その違いの中に日本の政治が官僚支配になってしまうカギがありそうです。そこでアメリカと同じ仕組みである国会のどこがアメリカと違うのかを見ていく事にします。

 まず委員会中心主義は同じでも委員会のあり方が違います。委員会は本会議で法案を採決する前に審議を行うところで、日本もアメリカも大体20位の常設の委員会があります。そこまでは同じです。ところがアメリカでは問題ごとに委員会が作られているのに対し、日本では霞ヶ関の役所に対応する形で委員会が作られているのです。何故かと言えば法案を作る主体が違うからです。アメリカでは大統領府と個々の議員が法案を作ります。そのため政府の役所に対応する形で委員会を作る必要がありません。ところが日本では霞ヶ関の役所が法案を作るため、委員会が役所に対応する形になるのです。

 例えば霞ヶ関改革によって大蔵省が財務省と金融庁になり、文部省が文部科学省になりました。すると国会の委員会も大蔵委員会が財務金融委員会となり、文部委員会が文部科学委員会に変わります。このように委員会は常に役所に見合う形になるのです。国会の最重要の仕事は法律を作ることですが、行政府が法案を作るために、行政府の形がそのまま国会に持ち込まれます。言い換えれば行政府が作る法案を成立させる機関が立法府と言うことになります。

 従って役所にとって国会には「自分たちの委員会」が存在することになります。その委員会に所属する議員は役所にとって特別の存在です。特に法案に賛成してくれる与党議員には付きっきりで面倒を見ます。日頃から情報を提供し、法案の説明を行い、賛成してくれるよう説得します。委員会で大臣が野党の質問に答えるため、官僚が事前に野党の議員から質問内容を聞き出します。そうして知り合った野党議員に官僚が時には質問を作成してやる事もあります。つまり委員会というところは官僚がシナリオライターの役割を果たしているのです。

 国会は「国権の最高機関」と言われますが、行政府から見ると法案を作る下請け工場と見られなくもありません。戦前、官僚にとって戦う相手だった議会と政党は、戦後は面倒を見てやる相手に変わったのです。(続く)

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ニッポン維新(32) 55年体制は本当に終わったのか

 これまで私は「55年体制の終焉」という言葉を使ってきました。1993年の総選挙で自民党の長期政権に終止符が打たれたことで「55年体制は終った」と書きました。しかしそう書いたのは世間で言われている通りにしたまでで、本音では違う見方をしています。


 「55年体制」を自民党と社会党の二大政党が対立する体制と考えれば、93年の総選挙でその対立は終わりました。しかし自民党と社会党が対立しているように見せながら、官僚が主導して戦前に確立された「1940年体制」を「国家総動員」で実現する仕組みが「55年体制」だと考えれば、93年は「終焉に向けてのスタートが切られた年」で、「55年体制」はまだ終わってはいません。
 

 「55年体制」の本質は「官僚主導の統制経済」です。その体制を維持するためには官僚が常に政権与党と一体でいる必要がありました。戦前とは違って官僚と政党政治は戦う事をやめ、自民党と官僚が一体となりました。この体制を維持するために政権交代はあってはなりません。だから社会党は選挙で過半数を超える候補者を擁立せず、憲法改正を阻止できる三分の一を越える議席を狙うだけでした。


 しかも社会党の支持母体となる労働組合では官公労の力が強く、さらに戦前の「1940年体制」を作った革新官僚の一部が政治家となって社会党の理論的支柱になりました。従って社会党もまた官僚による統制経済を推進する側にいました。93年の選挙で社会党が壊滅状態になったことは「55年体制」の一角が崩れたことを意味しますが、官僚主導の統制経済体制が崩れたわけではありません。

「55年体制」の日本は貿易立国を国是としました。そのため自動車や家電など製造業の国際競争力が日本の支えでした。この構造も変わることなく続いています。日本の輸出を支えたのは、日本によって製造業を駆逐されたアメリカです。アメリカは消費大国となる一方、ITと金融に力を入れ、21世紀型の産業を目指しました。ここに日本やアジアが作った工業製品をアメリカが輸入し、アメリカは金融商品を作って売るという世界の経済構造が生まれました。

 その世界の経済構造に破綻が生まれました。アメリカの金融危機に端を発する世界不況が各国経済を直撃しています。日本ではアメリカの金融資本主義が諸悪の根元のように言われていますが、私には勝手にアメリカが金融資本主義になり、勝手におかしな金融商品を作って売ったとは思えません。日本の「55年体制」が育てた官僚主導型統制経済に何の責任もないとは思えないのです。国家総動員態勢で外需依存経済を押し進めた事が世界経済をかき回し、現在のアメリカ金融資本主義を促進させたと思えるのです。

 日本の高度経済成長は確かに戦後世界で特筆すべき成功例です。しかし日本の成長の裏で苦難を強いられた人々や産業や国家があったことも事実です。アメリカ議会では日本製品のダンピングが指摘され、日本企業が外国で安売りをするツケを日本の消費者が国内で高く買わされていると訴えた議員がおりました。その議員は日本の消費者が賢くなって問題の本質を見つめて欲しい、日本は失業を輸出していると訴えていました。そして日本国自身もこの20年近くは「55年体制」が生み出したひずみに苦しんでいます。官僚主導の統制経済、外需依存型の経済構造、政権交代のない政治の仕組み、それらを見直すべき時が来ているのです。

 奇しくも「1940年体制」が生み出されたきっかけはアメリカ発の大恐慌でした。当時の指導者は資本主義の構造変化を考えました。ソ連共産主義に影響されて国家社会主義的な統制経済に走りました。それが「55年体制」と共に戦後に甦り驚異的な経済成長を生みました。今我々に求められているのは、「55年体制」に代わる新たな構造変化ではないでしょうか。「55年体制」を本当に終わらせ、官僚主導によらない国の仕組みを作ること、それが「ニッポン維新」です。それでは何を変えるべきなのかを考える材料として、「55年体制」の実態、官僚主導の現実を紹介することにします。(続く)

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ニッポン維新(31) 55年体制の終焉とアメリカ(3)

 政権交代を行う国ではどこもそうですが、与党と野党の政策の差が大きくない事が大事です。政権交代の度に世の中が大転換するのでは国民生活を混乱させます。野党第一党の社会党には政権を任せられないと考えられた理由の一つがそこにありました。世界が東西対立をしている中で、西側陣営の一員である日本がそれを覆す訳にはいかないと考えられたからです。社会党も政権をとる気がないから「何でも反対」を貫いてきました。現実の政治を行える政策は持っていません。そのため日本では自民党を二つに割り、保守二党間で政権交代を行うしかないと考えられました。


  当時の自民党には大きく分けて二つの潮流がありました。吉田茂の流れを汲む田中派と宮沢派は経済を優先して富の分配に力点を置きました。これに対して岸信介の流れを汲む福田派と中曽根派は安全保障を優先して分配よりも富の成長に力点を置きました。イギリスで言えば前者が労働党で後者が保守党、アメリカだと前者が民主党で後者が共和党に近い立場です。

  この二つで政権交代をすれば欧米のような政治体制になるのですが、それも容易ではありませんでした。権力を握っている自民党から好んで野党に転じようという政治家はおりません。しかも最高権力者である中曽根総理は政権交代に絶対反対でした。政権交代のない政治こそが日本にふさわしいと繰り返し発言していました。結局、自民党の分裂は最大派閥である旧田中派の派内抗争から始まりました。政権交代を可能にする小選挙区制の導入を巡って、金丸、小沢、羽田氏らが賛成、竹下、橋本、小渕氏らが反対でした。これが自民党を分裂に導くのです。

  社会党の中でも「何でも反対」路線に不満を持つ右派のグループが金丸氏らと同調する姿勢を見せ、財界からも経団連会長の平岩外四氏が政権交代に協力しました。自民党の金丸、小沢氏と社会党の田辺誠氏、そして平岩外四氏の4人が秘かに会合を持ち、新党結成を話し合いました。新党結成で最大の問題は資金です。政党は企業と違って利益を生み出す組織ではありませんから、資金を提供しようとする人はなかなかいません。金丸氏が甲府に持つ土地を売って資金を作る事などが話し合われました。

  1991年に誕生した宮沢政権は小選挙区制に道を開く政治改革関連法案の成立を目指しましたが、党内をまとめきることが出来ませんでした。しかも92年に金丸信氏が佐川急便事件を巡って議員辞職、その後脱税容疑で逮捕されるなど政界は大混乱に陥りました。脱税容疑となった金について、金丸氏は私的な金ではなく新党結成のための政治資金だと主張しましたが、認められませんでした。竹下派の主導権を巡って小沢氏と竹下氏の対立が激しくなり、小沢氏らは派閥から出て新派閥を作ります。そして93年の通常国会で宮沢内閣不信任案に賛成し、この造反が宮沢政権を解散・総選挙に追い込みます。

  選挙結果は自民党と社会党が大きく議席を減らしました。自民党の議席減は小沢氏らが自民党から離党したためで、選挙の結果ではありませんが、社会党の議席減は、社会党が国民の支持を失った結果でした。91年のソ連崩壊による冷戦の終焉が社会党の凋落をもたらしたのです。単独過半数を失った自民党は自民党から離党した新党さきがけとの連立を模索しますが、小沢氏の政治力がそれを上回りました。小沢氏は日本新党の細川護煕氏を総理に担ぐ事でいち早く野党をまとめ上げ、比較第一党の自民党を政権の座から引きずり降ろしました。ここに1955年の保守合同以来長期政権を続けてきた自民党が野党に転じることになり、「55年体制」は終わりを告げたのです。

  その歴史的な総選挙が行われる矢先に、就任したばかりのビル・クリントン米国大統領が来日しました。クリントン大統領は宮沢総理と首脳会談を行う一方で、自民党を離党した羽田、小沢両氏や新党日本の細川護煕氏をアメリカ大使館のパーティに招きました。アメリカ大統領が選挙直前に野党の指導者を招待するというのは異例の事です。アメリカが自民党を支持するとは限らない事を具体的な行動で示した事になります。これは日本の政界に衝撃を与えました。

  これより前、アメリカはフィリピンのマルコス政権と韓国の全斗換政権を退陣に追い込みました。いずれも親米反共政権ですが、どちらも民衆の支持を失った政権です。いかに親米でも国民の支持がなければアメリカは認めない。ベトナム戦争に敗北したアメリカは反共よりも民衆に支持される政治を求めるようになりました。政権交代のない日本にも政権交代の可能性が出てきた。アメリカは日本の政治の変化に期待を寄せたのです。それが野党指導者を「招待」する事につながったと私は思います。

  しかしアメリカが期待を寄せた細川政権は短命に終わり、自民党が社会党の村山富市氏を総理に担いで再び政権に復帰しました。細川総理がなぜ突然辞任したかはいまだに謎に包まれています。そしてそれからの日本政治は長い混迷を続けています。クリントン大統領1人の在任中に日本では7人もの総理が交代することになったのです。(続く)

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ニッポン維新(30) 55年体制の終焉とアメリカ(2)

 話を1985年に戻します。日本経済が頂点を迎えたその年にアメリカ議会の調査団が日本の国会を訪れました。日本の政策決定過程を調べるためです。世界最大の債権国となった日本はアメリカにとって「脅威」でした。経済成長の秘密を解き明かすため、アメリカはそれまで無関心だった日本の政治構造にスポットを当てたのです。


 アメリカ大使館が主催してアメリカ議会の調査団と日本の政治家、学者、ジャーナリストとの懇談会が開かれました。当時自民党の取材を担当していた私も懇談会の末席に呼ばれました。会合でアメリカ側が最も疑問を呈したのは「なぜ政権交代がないのに政治が腐敗もせずに機能しているのか」という点でした。我々は自民党の長期政権を別に不思議とは思っていませんでしたが、アメリカ側にはそれが理解できないのです。自民党の議員が「日本では志のある議員と志のある官僚が協力して国家の経営に当たっているので政治は機能している」と説明しましたが、アメリカ側は首をひねるばかりでした。

  「派閥」の存在もアメリカ側には理解できないようでした。「派閥とは何か。なぜ派閥が必要なのか」という質問が繰り返されました。日本の学者が一生懸命説明しましたが、これもアメリカ側には最後まで分からないようでした。話を聞きながら我々が民主主義だと思ってきた政治が、外国には全く理解できない仕組みであることを痛感しました。日本の政治を外国に理解させることは不可能だと思いました。

  当時フィリピンで親米反共のマルコス政権が崩壊寸前でした。マルコス政権打倒の先頭に立っていたのは亡命先のアメリカから帰国して暗殺されたアキノ元上院議員の夫人です。アメリカは親米反共のマルコス大統領よりもアキノ夫人を支持していました。何故親米政権をアメリカが嫌うのか、その理由は「マルコス独裁20年」です。フィリピンでは政権交代のない政治が20年間続いていました。しかしその時点で日本は政権交代のない政治を30年続けていました。アメリカに「自民党独裁30年」と言われないかと気になりました。

  アメリカ議会の調査団との懇談の後、当時政界の実力者であった金丸信自民党幹事長に「日本の55年体制がアメリカからマルコス政権と同様に見られることはないか」と聞いた事があります。すると国対政治のドンと呼ばれた金丸氏が「55年制はもう持たないよ」と言いました。「政権交代が可能になる仕組みを作らないと日本の政治は持たない」と断言したのです。

  日本で「政権交代の必要性」が言われ出したのは、私の記憶では1976年に起きたロッキード事件の直後からだと思います。前にも説明しましたが、ロッキード事件は航空機の選定を巡ってアメリカのロッキード社から日本の政界に55億円の工作資金が流れ込んだ「戦後最大の疑獄事件」です。事件は全日空のトライスター導入を巡り商社の丸紅を経由して5億円を受け取った容疑で田中角栄元総理が逮捕されました。事件はそこで幕引きとなりました。

  残る50億円が誰に流れたかは未解明のままです。ロッキード社の秘密工作の窓口は右翼民族派の領袖である児玉誉志夫でした。彼は自民党の前身である自由党に結党資金を提供した事から、保守政界の政治家たちとは昵懇の間柄です。東京地検がすべてを解明すれば、おそらく自民党は壊滅状態になった筈です。しかし自民党に代わって政権を担当する政党が当時の日本には存在しませんでした。

  「55年体制」とは自民党だけが政権を担当し、霞ヶ関の官僚機構が主導して日本の計画経済を推進する仕組みです。野党と呼ばれた社会党が政権を担当する事は想定されていませんでした。社会党にも政権を担う気はありませんでした。従って事件の全容を解明すれば日本の政治は真空状態になる恐れがありました。東京地検が全容を解明したくとも出来ないのが日本の「55年体制」だったのです。

  国民は勿論、大方の政治家もメディアもその事に気づいてはいません。しかし日本の権力機構の中枢に「55年体制」を継続する事には無理があるとの考えが芽生えました。長年続いてきた政治構造を変えてどうすれば本物の野党を作ることが出来るのか。「政治改革」が次第に日本政治の大きな課題となっていきました。(続く)

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ニッポン維新(29) 55年体制の終焉とアメリカ(1)

 「55年体制」の政治の実像を紹介する前に、「55年体制」がどのようにして終焉を迎えたかをアメリカとの関係で記します。


 日本経済の高度成長は世界を驚かせました。60年代の日本は東洋の輝ける国となりました。64年には東海道新幹線が開業、アジア初の東京オリンピックも開かれました。68年には国民総生産が世界第二位になります。一方、60年代のアメリカはベトナム戦争が泥沼化し、経常赤字とインフレに苦しみました。そこからアメリカの反撃が始まります。

  第一撃が1971年8月15日の「ニクソン・ショック」です。ニクソン大統領は突然ドルと金との交換停止を発表し、ドルを基軸通貨とするブレトンウッズ体制を終了させました。戦後の世界経済は金1オンスを35ドルとして各国通貨の交換比率を定めました。これを固定相場制と言い、日本の円とドルとの関係は1ドル360円に固定されました。アメリカはそれをやめて変動為替相場制に突入する事を宣言したのです。

  その結果、1ドルが308円に切り上げられ、日本の輸出産業は大打撃を受けました。ニクソン大統領の発表が太平洋戦争終戦記念日の8月15日に行われた事から、敗戦国日本の高度成長を強く意識したものだと言われました。しかしそれでも日本の対米貿易黒字は収まらず、日米貿易摩擦は激しさを増していきます。

  80年代の日本とアメリカは自動車、家電製品、半導体などの貿易を巡って激しく衝突しました。日米は再び戦争に突入するとまで言われました。「55年体制」の国是である貿易立国路線に疑問が生まれます。内需拡大の必要性が叫ばれましたが、輸出主導型の経済が見事に成功したため、切り替える事はできませんでした。

  1985年、遂にアメリカが世界最大の債務国に転落し、日本が世界最大の債権国に上り詰めます。明治以来、日本人の念願であった「欧米に追いつき追い越せ」が達成されたと国民は思いました。「55年体制」はここに頂点を迎えます。日本人は寿命の長さ、初任給の高さ、識字率、子供の学習能力などすべてが世界一だと自慢するようになりました。

  するとアメリカは第二撃を繰り出します。「プラザ合意」です。アメリカ政府は秘かにG5の蔵相をニューヨークのプラザホテルに集め、電撃的な為替の協調介入を行いました。その結果、円相場が1ドル200円台から100円台に上昇します。またまた日本の輸出産業は大打撃を受けます。日本は円高不況に対応するため低金利政策を採用し、それがバブル経済をもたらしました。

  1986年、日本政府は輸出主導型の経済構造を転換するため前川春雄元日銀総裁を座長に研究会を始めます。その成果は「前川レポート」にまとめられ、内需拡大、市場開放、金融自由化などを行うことになりました。国民生活の質を向上させ、「1940年体制」から脱却する事を目指しました。しかし岸信介氏らが作った官僚主導型統制経済を乗り越えることは出来ませんでした。「1940年体制」はその後も続き、今でも日本の基本構造となっています。

  バブル経済は日本に深刻な打撃を与えます。「1940年体制」によって日本の金融の中枢に据えられ、大蔵省がすべてを監督してきた銀行に腐敗が生まれました。日本中が株と不動産への投機に踊り、その中で銀行が闇の紳士たちの餌食になったのです。地上げを巡って日本の銀行にヤクザが入り込みました。銀行の弱みを握ったヤクザが巨額の融資を引き出して海外の不動産を買いあさります。最も買われたのがアメリカです。アメリカは日本のヤクザの入国を阻止する一方で、ヤクザに牛耳られた日本の金融界の是正を日本政府に強く求めました。当時ハワイに行けなくなったヤクザが沖縄に向かい、沖縄の海が入れ墨のお兄さんたちで溢れました。

  一方、国内でも中曽根政権の「民間活力路線」によって、経済界に闇の勢力が跳梁跋扈しました。「イトマン事件」など不可解な経済事件が相次ぎます。そのため大蔵省はバブル経済を強制的に幕引きさせます。1990年、銀行に対して「総量規制」という行政指導を行い、不動産業界などへの貸し出しを規制しました。一方で日銀が金融引き締めを行ったため、日本経済は一気に不況に転落、バブル経済は泡と消えました。その後はご存じの通り、日本は冬の時代を迎え、長い閉塞状況が続いています。(続く)

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ニッポン維新(28) 55年体制とは(2)

 ここに岸信介氏らが満州で夢見た官僚主導で統制型の本格的な計画経済が花開くことになります。1955年以降の日本は、霞ヶ関主導の下で与党も野党も企業も労働組合もメディアも学者もすべての勢力が経済の繁栄のために総力を挙げた「国家総動員体制」だと私は思っています。


  通産省が中心となって日本の産業を繊維から重化学工業に変え、エネルギーを石炭から石油へと一気に転換し、日本は外需主導の貿易立国を目指すことになりました。高度成長のきっかけとなる池田内閣の「所得倍増計画」も実は岸内閣時代に作成されていたと言われています。こうして戦前の計画経済モデルによって日本は世界が驚く経済成長を成し遂げ、世界第二位の経済大国に上り詰めたのです。

 「55年体制」と「1940年体制」を結びつける存在として岸信介氏や椎名悦三郎氏が自民党の中枢で重要な役割を果たしたと紹介しましたが、野党の側にも「1940年体制」の主役達がいます。社会党副委員長を務めた和田博雄氏は、岸氏らと同じ戦前の革新官僚で戦時経済計画作成の拠点となった「企画院」のメンバーでした。戦後は左派社会党に所属して社会党の政策プランを作成します。また和田氏の戦前からの部下が勝間田清一氏で、勝間田氏は1967年に社会党委員長に就任します。このように「55年体制」の与野党の中枢には戦前の「1940年体制」に関わる人たちが存在したのです。

 戦時中の統制経済をモデルにした経済成長の特徴は、第一に「生産増強」を優先します。従って「55年体制」の日本は「生産優先主義」でした。国民生活の質の向上よりも経済成長に力点が置かれ、経済さえ成長すれば国民の生活は結果として良くなるという考えでした。「ウサギ小屋」に住む「モーレツ・サラリーマン」が量産された訳です。福田前総理がこの「生産優先主義」から「消費者行政」に力を入れると言い出したのは、「55年体制」も高度成長も終わっているのですから当然です。ただそのために「消費者庁」という役所を作る考えは「55年体制」の官僚主導の発想から一歩も出ていません。日本は官僚の手に委ねないと何も出来ないのかと思わせる話です。

 第二に統制経済は「競争」を否定します。競争によって値段が下がり消費者が利益を受けることを、日本では「過当競争は弱い企業を不利にする」と言って「悪」とされます。「競争」よりも「業界の協調」が重んじられるのです。それは大企業を頂点に中小零細企業が底辺を形成するピラミッド型の生産体制を固定化します。官僚が頂点の企業を指導し、その指導が底辺にまで浸透する仕組みです。生産を市場の競争原理に委ね、競争から脱落した企業はつぶれても、個人を社会保障のセーフティネットで救うというのが資本主義社会共通のシステムですが、日本ではピラミッドを守って企業の脱落を防ぐやりかたが優先され、セーフティネットは作られませんでした。

 高度成長というのはあらゆる分野が均等に成長することではありません。日本の場合は貿易立国を国是としましたから、製造業の輸出産業だけが高い生産性を実現します。それを国家が支援します。その裏側で犠牲となったのが農業や石炭などの衰退産業と中小企業です。それらは国際的にも立ち後れることになりました。そうなると都市と農村、そして業種間で大きな格差が生じます。そこでこうした弱い分野を保護することが政府の仕事になります。政府は輸入制限や参入規制を設ける一方、補助金や税制上の優遇措置でこれらを保護しました。

 農業は高度成長の犠牲となった典型的な産業です。政府は食管制度によって農家を国際競争から保護する一方、地方に道路と鉄道を建設する事で、大都市圏の企業やサラリーマンから集めた法人税と所得税を地方に分配しました。この分配に関与できるのが与党政治家です。そのため農村は自民党の票田となりました。いまだに自民党の中で道路族が強いのは、高度成長が終わったのにその構造だけが生き残っている事を示しています。

 このように高度成長の主流からはずれた低成長分野に中央から補助金や公共事業を持ち込むことが自民党議員の仕事になりました。その結果、国家の長期目標を考えたり、外交に力を入れる政治家は選挙に落選し、官僚組織の手先である「族議員」になり、補助金や公共事業に強くなる事が当籤する議員の条件となりました。

  「55年体制」は日本を世界の経済大国に押し上げました。しかし世界に例のない政治構造は、一方でこの国に深刻な問題をもたらします。この20年ほどの日本が苦しんでいるのはその問題です。世界第二位の経済大国に上り詰めた瞬間から、国のすべてが弛み出し、高度成長が終わると一転して凋落の一途を辿ることになりました。高度成長の地下に埋められてきた矛盾と腐敗のマグマが一気に吹き出すかのように、官僚機構にも、政治の世界にも、そして経済界にも、日本社会の至る所に腐敗が蔓延し始めました。

 
私たちは問題の根元がどこにあるのかを突き止めて、是正しなければなりません。そうしないと日本の凋落を止める事が出来ないからです。そのためにはまず「55年体制」の実像を知ることです。メディアは官僚機構に囲い込まれ、国民を目くらましにする報道を続けてきましたから、これまでの常識や観念を取り払って考え直さなければなりません。そこで「55年体制」の政治の実態と問題点をもう一度整理することにします。それが「ニッポン維新」の出発点です。(続く)

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ニッポン維新(27) 55年体制とは(1)

 「55年体制」は保守と革新を代表する自民党と社会党が対立する構図ですが、他の民主主義国のように政権交代は起きませんでした。自民党と社会党の関係は労使関係と似ています。組合は会社側に要求を突きつけてストライキを打ちますが経営権は奪いません。社会党も決して権力を奪おうとはしませんでした。そもそも社会党は選挙で過半数を超える候補者を擁立しません。だから権力を奪えるはずがないのです。社会党が目指したのは憲法改正に必要な三分の二の議席を自民党に与えないことでした。労働組合が経営権を求めないのは理解できますが、野党が政権を求めないのは民主主義国家ではあり得ない話です。しかしそれが「55年体制」の日本政治でした。


 国家の運営はすべて自民党に任せ、社会党は「何でも反対」を貫きました。そのため与野党は対立するのですが、政策的対立と言えるかどうかは疑問でした。自由主義経済を標榜する自民党が社会主義と同じ官僚統制を政策の中心に据え、福祉国家を目標とする社会党が福祉国家ならどの国でもやっている消費税に反対するなど世界の常識に外れた「政策的ねじれ」が平気で起きました。

  「55年体制」ではどんなに国民が自民党に代わる政権を求めても実現はしません。いわば独裁にも似た自民党長期政権が続く事になります。これは国民にとって政策を選択する事の出来ない政治です。しかし霞ヶ関の官僚機構にとっては極めて好都合でした。政権交代がなければ官僚が長期にわたり政策を作成する事が可能で、政策は妨害に遭うこともなく継続されるからです。

  実は「政権交代は起きてはならない」と言うのが官僚の本音です。そうした官僚の本音を表す言葉があります。「政局よりも政策が大事」と言う言葉です。政局とは政治の権力闘争のことですが、権力闘争の最たるものは選挙です。ですからこの言葉は国民に選挙で政策を選ばせるよりも政策は官僚が作るものという事を意味します。

  民主主義は国民が権力を選ぶ仕組みです。国民は権力を選ぶことで政策も選びます。政党が政策を作り、国民が選挙で政党を選び、それで国の政策が決まります。それが民主主義の基本です。ところが官僚が政策を作っている日本では、選挙よりも官僚が作った政策の方が大事だという発想になるのです。

  これは民主主義と相容れない考えです。しかし日本のメディアや学者はこの言葉を正しいと宣伝してきました。「政局」と言うと必ず「国民のことを考えない党利党略でけしからん」と厳しく批判するのです。どの国の政党も権力を獲得するためには「党利党略」で動きます。その結果、最も国民の支持を得た政党が国民に約束した政策を実現します。「政策は政局の結果」であり、政策と政局は対立するものではないのです。ところが日本ではまるで逆の思想が国民に刷り込まれました。

  何故かと言えば、政権交代を求めない社会党が「何でも反対」を繰り返して政治を停滞させたからです。政権交代を求める「権力闘争」があって初めて現状の政策に代わる政策が実現します。権力を求めない反対はただの妨害です。従ってそうした反対は批判されて当然です。一方で「権力闘争」は自民党の中にありました。反主流派が政権の足を引っ張る「権力闘争」です。しかしこれは国民が参加する選挙にはつながりません。従って民主主義とは無縁の「権力闘争」です。これも批判されて当然です。つまり「55年体制」には民主主義に不可欠のまともな「権力闘争」がなかったのです。そのため「権力闘争=政局」が悪い事のように思われました。これは官僚にとって誠に都合の良い理想的な環境でした。(続く)

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ニッポン維新(26) 官と政の一体化

 政党政治の源流は坂本龍馬です。幕末に龍馬は全ての階層が参加する選挙によって二院制の議会を作り、議論を通して政治を行う共和制を考えました。しかし明治初頭にヨーロッパを視察した大久保利通や伊藤博文は、大国フランスを破ったプロシアのビスマルクに強く影響され、議会よりも官僚と軍隊を重視する政府を作ります。以来、日本では官僚と政党とが権力を巡って激しくぶつかり合うようになりました。


  龍馬の思想は自由民権運動に受け継がれ、薩長藩閥官僚政府に対抗して議会を開設させる動きとなります。その結果、明治22年に大日本帝国憲法が公布され、翌23年に第一回衆議院選挙と大日本帝国議会の開設が決まります。すると第2代内閣総理大臣黒田清隆は「政府は超然として政党の外に立つ」と宣言しました。「政府は議会の制約を受けない」姿勢を示したのです。これを「超然主義」と言い、官僚は大正時代初頭まで政党を無視し続けました。「超然主義」はビスマルクの専制主義を官僚が真似しようとしたものです。

  第一回衆議院選挙は国税15円以上を納めた富裕層だけが投票できる制限選挙でした。しかし衆議院議員の過半数を官僚派ではなく民権派が占めました。そのため政府が作った予算案は議会を通りません。このとき官僚政府は「予算は天皇の大権に基づく」と言って民権派議員を徹底的に切り崩し、議会を無力化しました。この様に戦前の日本では官僚と政党とが激しく争いますが、資本主義の発達によって次第に政党政治が力をつけていきます。ただ残念ながら政党が官僚を抑えられないまま日本には軍国主義が台頭し、第二次世界大戦に突入していく事になります。

  しかし戦後になると官僚と政党との関係が一変しました。官僚と政党が戦うことをやめて一体化したのです。戦後の日本は1945年から52年までの「占領期」とそれ以降に分けることが出来ますが、「占領期」に権力を握っていたのは連合国軍総司令部(GHQ)です。GHQは直接日本を統治せず行政を官僚に代行させました。一方で政治家は、戦後初の総選挙で第一党となった自由党の鳩山一郎氏が組閣半ばで公職追放となり、GHQと日本政府のパイプ役となっていた外務官僚の吉田茂氏が代わりに自由党を率いて内閣を組織します。吉田総理は「ワンマン」と言われたように日米安保条約をただ一人で署名するなど独裁的な力で戦後日本の方向性を決定づけました。

  1952年に日本が独立すると、追放されていた政治家達が政界に復帰します。その中に鳩山一郎、石橋湛山氏ら戦前からの政治家がいました。一方、満州国で活躍した人々も続々政界入りします。その中に統制経済を主導し、東条内閣の商工大臣として「国家総動員体制」を作り上げた岸信介氏もいました。鳩山、石橋、岸氏らは反吉田の一点で集まり、53年に鳩山氏を総裁に日本民主党を結成します。岸氏は当選してまもない54年に民主党幹事長、そして翌55年には自由党と民主党の合同で出来た自由民主党の幹事長に就任しました。

  1955年10月に左右の社会党が合同し、11月に自由党と民主党が合同して出来た「55年体制」は、戦後の政治体制を決定づけるものですが、見過ごしてならないのは岸信介氏がその中枢に存在している事です。しかも岸氏はまもなく57年に最高権力者の内閣総理大臣に就任し、かつて計画経済の理想を実現しようとした満州での人脈を政府の要所に配置するのです。

  例えば戦前戦後を通じて常に岸氏の腹心であった商工省出身の椎名悦三郎氏は官房長官、通産大臣として岸内閣を支え、その後も池田内閣、佐藤内閣で通産大臣を務めました。その過程で日本は貿易立国を目指す事になり、通産省の役割が大きくなっていきます。やり方は戦前と同様に統制色の強いものです。日本の輸出入貿易を全て通産省が管理し、また日本開発銀行を設立して産業開発の権限を通産省が握りました。そして通産省が日本経済を石炭や繊維産業から重化学工業へと転換させていきました。

  岸人脈の植村甲午郎氏が経団連副会長となり、経済界に戦前と同様の集団指導体制が作られます。間接金融体制や税制など国の仕組みは戦前のままです。これが日本の高度経済成長を生み出すことになりました。つまり戦時計画経済の「1940年体制」を戦後に花開かせたのが「55年体制」だったと考えられます。それは日本が国家総動員で経済成長に邁進する仕組みであり、官僚が国の全てを管理統制する計画経済のシステムでした。

  ところが「55年体制」を二大政治勢力が対抗する「自社対決」の時代だと宣伝したのは新聞とテレビです。何かにつけて「与野党激突」と報道しました。国民は日本にも民主主義が実現し、自分たちの一票で政権が交代すると錯覚させられました。しかしいつまでたっても万年与党と万年野党が続きます。そして誰も日本がかつてヒトラーやスターリンが目指した計画経済に組み込まれているとは思いませんでした。メディアの作るフィクションで国民はすっかり目くらましをされていたのです。(続く)

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ニッポン維新(25) 戦後日本と1940年体制

 明治以来急速に発展した日本の資本主義を転換し、共産主義国家ソ連のような計画経済を実現しようとしたのが「革新官僚」と呼ばれる人たちです。その中に満州国建設に主導的な役割を果たし、戦後は保守政界の中枢を占めた岸信介、椎名悦三郎氏などがいました。満州国は革新官僚にとってまさに理想を実現するための実験国家です。商工省のエリート官僚であった岸氏は満州で「産業開発5カ年計画」を推進し、重工業化を図りました。右翼と位置づけられる岸氏ですが、当時はマルクス経済学を研究し、他の官僚からは「アカ」呼ばわりされたと言います。


  革新官僚たちは満州国で試みた政策を戦時下の日本にも導入しました。それまでの官僚は政党政治の伸張を阻むため、政党に対する優位性を確保することに力を入れましたが、民間経済を統制することはしませんでした。しかし革新官僚は民間経済への介入を強め始めました。1940年前後に行われた「改革」の内容を見ると、戦後日本の経済構造がほとんどこの時期に作られたことが分かります。その事実を列挙します。

  まず「国家総動員法」によって株主中心の株式会社を従業員中心の共同体に作り替えました。株の配当を制限し、株主の権利を制限することで、企業を株式市場からの資金調達ではなく銀行の融資に頼らせるようにしました。つまり直接金融を間接金融に転換させたのです。金融恐慌によって休業に追い込まれた銀行を整理・再編成し、金融システムの安定化を図るために「銀行法」が制定され、銀行に対する大蔵省の監督権が強化されました。銀行の護送船団方式が始まり銀行は完全に大蔵省の管理下に置かれました。民間企業もまた銀行を通して間接的に国家の管理下に置かれるようになりました。一方で配当の制限により国民は株を買うよりも銀行と郵便局に金を預けるようになります。日本では銀行と郵便局が金融の中で特別の地位を占めるようになりました。

  それまでは大株主が企業の経営に参画するのが普通でした。しかし経営陣に内部昇進者が多数を占めるようになり、年功序列賃金と終身雇用制も確立されました。また労資協調を図るため「産業報国会」が作られて労働組合は解散させられ、それが戦後に産業横断的ではない企業別組合が結成される下敷きとなります。こうして企業は「株主のもの」から「経営者と従業員のもの」という日本型経営に変わりました。

  また戦時期に於ける増産体制の必要から下請け制度が導入されました。それまで日本の大企業は部品なども自家生産していましたが、国家の要請による緊急措置として下請け方式が採用され、大企業と中小企業の縦の系列が出来上がりました。現在の大企業と下請け企業との関係はこの時期にスタートしたものが多いと言われています、

  さらに産業界を官僚が支配するため、業界ごとに「事業法」の制定が行われました。その法律に従って業界は官僚の「行政指導」や「産業政策」を受け入れるようになり、また業界団体は「自主的に」という建前ではありますが、「統制会」という政府の下部機関を作って官僚に管理されるようになりました。現在の経団連や業界団体はこの「統制会」が戦後に復活したものです。

  税制も変わりました。間接税中心だった税制を1940年の税制改正で所得税と法人税という直接税に変え、戦費調達のためと称して給料から税金を天引きする「源泉徴収制度」が始まりました。戦争が終わった今でも国民は「源泉徴収」に抵抗を感じていませんが、あれは戦時下に於ける異例の徴税の方法です。世界では国民が自分で税額を計算します。それが税金の使い道に関心を持つ意識につながります。日本人は納税意識が低いと言われますが、戦時中だけの特別の権限を今でも官僚国家に与えているためです。

  補助金や交付金で地方が中央に依存するようにしたのもこの時です。戦争を理由に地方自治よりも中央集権体制が強化されました。健康保険制度が全国民に拡げられ、年金制度が拡大されて「厚生年金」となったのもこの時期です。普通ならば国民的な議論が巻き起こる大改革が戦時下を理由に次々に実現し、官僚機構が国の隅々まで管理する体制が作られたのです。

  これらの仕組みは戦後GHQの民主化政策によっても変わることはありませんでした。そしてこれが戦後の日本の基本構造となり現在に続いています。日本の歴史は敗戦で変わったのではなく、それ以前の戦時下に導入された国家社会主義体制が民主主義の衣をまとって今も生き続けているのです。そして明治以来激しく争ってきた官僚と政党との戦いも戦後はなくなりました。1955年に結党された自由民主党は政党が官僚と一体化する事で長期政権を築きました。これが政権交代のない官僚支配国家を作って行ったのです。(続く)

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ニッポン維新(24) 敗戦で日本は変わったのか

 戦後教育を受けた我々は日本国家の転換点を1945年と考えています。第二次大戦の敗戦を境に日本は封建的で軍国主義のひどい時代から、国民に主権が与えられた民主主義の時代に変わったと教えられたからです。我々は「戦前・戦後」という区分を何の疑いもなく受け入れています。しかしそれは本当でしょうか。


  一橋大学名誉教授の野口悠紀雄氏は日本の転換点を「1940年」だとしています。日本が日中戦争から太平洋戦争へと歩みを進める戦時下に、国の仕組みの全てが作り替えられたとする主張です。そして重要なことはその「1940年体制」が戦後の民主化政策によっても変えられることなく現在も続いているという事です。

  前にも書きましたが、明治維新で成立した天皇制は日本を絶対君主制の国にした訳ではありません。大久保利通のようにプロシアのビスマルクにあこがれて官僚政治を押し進めた政治家もおりますが、坂本龍馬の考えを受け継いで政党政治を強めようとした民権派の政治家もおり、官僚政治と政党政治の激しい相克がありました。一方で近代日本は資本主義経済を急速に発展させました。それによって民間の力が増大し、国民は政治的自由と政治参加を求めるようになりました。星亨や原敬など政党政治家が暗殺される事件もありましたが、政党政治は次第に力をつけ普通選挙法が制定される大正デモクラシーを迎える事になります。

  そうした流れを一転させたのは世界恐慌です。ニューヨーク証券市場での株価大暴落が引き金となってアメリカの銀行が連続倒産、その影響で世界は大不況に陥りました。現在の金融危機はその時の再来だとアメリカのグリーンスパン前FRB議長が指摘しています。かつての大不況が世界に何をもたらしたかを今こそ我々は真剣に勉強する必要があります。

  アメリカでは共和党のフーバー大統領が唱えた自由主義経済政策が破綻し、代わって民主党のルーズベルト大統領がニューディール政策を行いました。ニューディール政策とは国家が経済に介入する修正資本主義で、財政出動による公共事業によって経済を回復させるやり方です。しかしニューディール政策はうまくは行きませんでした。結局アメリカ経済を回復させたのは第二次世界大戦です。アメリカは戦争によってしか経済を回復させることが出来ませんでした。

  第一次世界大戦の敗戦で疲弊していたドイツでは経済的貧困によって共産主義と国家社会主義が台頭し、国家社会主義政党ナチを率いたヒトラーが権力を握りました。ヒトラーは社会主義的計画経済を推進し、アウトバーン建設などによって経済回復に成功します。大恐慌に打ち勝った政策はヒトラーの政策だけでした。そして唯一世界恐慌の影響を受けなかったのが計画経済を行っていた共産主義国家ソ連です。

  日本も世界恐慌の影響を受けて昭和恐慌に陥りました。経済不況で労働争議や社会主義運動が高まりました。政府は治安維持法を改正して社会主義運動を徹底的に弾圧する一方、不況から脱するために唯一恐慌の影響を受けなかったソ連の計画経済やヒトラーの国家社会主義の手法を真似し始めました。国家による経済統制が始まり戦時下を理由に「国家総動員態勢」が敷かれます。これが野口氏の言う「1940年体制」を作っていくのです。(続く)

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ニッポン維新(23) 戦後官僚支配の誕生

 1985年に日本が世界第二位の経済大国となり、アメリカが世界一の債務国になった時から、アメリカは日本経済の強さの背後に何があるのかを探り始めました。日本人は国民の勤勉さが戦後復興を成し遂げ、その後の経済成長をもたらしたと思っていますが、彼らはそうは思いません。各種の統計資料を見ても、日本人の労働の生産性が外国に比べて高いという事実はありません。


 アメリカから見れば、戦後焼け野原になった日本を工業国として復興させたのは、朝鮮戦争のために日本を補給基地として再建する必要があったアメリカの軍事戦略で、その後のベトナム戦争がさらに日本経済の高度成長を支えたと思っています。二つの戦争がなければ、そしてアメリカの軍事戦略がなければ、日本はいつまでも農業国でいたかもしれないのです。その日本が世界第二の経済大国になりアメリカを脅かし始めました。アメリカは日本経済に打ち勝つために真剣に日本分析を行いました。

 私がアメリカの議会中継専門局C−SPANの配給権を取得してアメリカ議会を見始めたのは冷戦の崩壊が始まった1990年ですが、アメリカ議会の最大テーマはソ連に代わる「次の脅威は何か」でした。そのアメリカの目に「次の脅威」と映ったのは日本経済です。日本製品がアメリカ市場に溢れていました。しかもアメリカから見ると日本経済は自分たちとは違う「異質の資本主義」です。アメリカは何が違うのかを徹底して分析し始めました。

 クリントン政権になってアメリカは結論を出します。アメリカは「大蔵省、通産省、そして東大赤門」が日本の諸悪の根元と断じました。大蔵省、通産省、東大というのは日本の官僚機構を象徴する存在です。つまり「日本経済は企業の力や労働者の力ではなく、霞ヶ関の官僚機構と自民党とが手を組んで後ろから支えているから強い。それは本来資本主義にはないルールで、インチキな資本主義が外国を脅かしている」と分析したのです。アメリカは日本を批判して「政官財の癒着」、「鉄のトライアングル」と言い始めました。するとそれまで官僚批判など恐ろしくて出来なかった日本のメディアが、同じ事を言ってしきりに官僚批判をするようになりました。

 「日本の官僚機構が諸悪の根元」という結論に達した時、アメリカ議会の議論には「しかし戦後の日本を作り替え、大蔵省に力を持たせたのはGHQではないか。アメリカが日本をいびつな国にした張本人である」という主張がありました。つまり戦後の日本を民主化したアメリカが、明治から続いてきた官僚主導の政治体制を終わらせず、むしろ強めたとアメリカは思っているのです。

 戦前の官僚機構の中心は内務省でした。明治政府が出来たばかりの頃、薩長藩閥政治の中では激しい権力闘争が繰り広げられました。当初は大蔵省が権力の中枢でしたが、大久保利通が内務省を作って内務卿となり、その大久保が権力闘争を制して独裁体制を築きました。以来、内務大臣は総理大臣に次ぐポストとなり、内務省が内政の要として戦前の官僚機構の中心を占めるようになったのです。

 GHQは民主化の一環として戦時中の特高警察や国家神道を廃止し、中央集権の象徴である内務省を自治省、警察庁、建設省、厚生省などに分割しました。内務省に代わって官僚機構の中心に返り咲いたのが大蔵省です。大蔵省は予算の配分、税制、金融政策を通じて国家の行方を決定する強力な権限を持つようになりました。「省の中の省」と呼ばれて戦後の日本を主導するようになりました。日本占領時代のGHQは直接の統治はせず、官僚機構に統治の代行をさせました。

 そのためGHQは戦争に関わった日本人20万人を公職追放に処しますが、官僚に対しては極めて不徹底で、官僚機構が力を失うことはありませんでした。一方で政治家の8割は公職追放になりました。この差がそのまま戦後の日本の統治構造に反映されます。戦前とは異なる形で戦後版の官僚支配が誕生することになったのです。(続く)

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ニッポン維新(22) 戦後民主化で生まれた国会も大問題(3)

 GHQが作った日本国憲法はさらに国会に深刻な問題をもたらしました。それは日本の二院制です。初めは貴族院を廃して一院制にしようとしたGHQですが、日本側の抵抗で貴族院の代わりに参議院を作りました。その参議院の性格が問題なのです。


  アメリカの上院と下院は性格が異なります。下院議員は国民の代表として小選挙区制で選ばれます。一票の格差が生じないように選挙区は10年ごとに区割りを変えます。一方の上院議員は国民の代表ではなく州の代表です。各州から人口に関わらず2名が選出されます。国民の代表ではないので一票の格差も問題にはなりません。下院は予算で優先権を持ち、上院は外交案件で優先権を持ちます。アメリカの上下両院は機能も分れていて二院制の意味が明確です。

  イギリスは二院制と言っても形式だけで、全てが下院で決められ、貴族院にはそれを覆す権限がありません。ところが日本の参議院は衆議院のカーボンコピーと揶揄されるほど衆議院との違いが明確でありません。両院とも一票の格差を問題にしていますから議員は国民の代表です。一票の格差をなくせばなくすほど違いはなくなります。そして総理大臣の選出と予算で優先権を持つ衆議院よりも参議院に実は強い力が与えられているのです。

  予算以外の全ての法案は参議院で否決されると衆議院の三分の二の賛成がない限り再議決が出来ません。何を根拠に三分の二という高いハードルを課したのか分かりませんが、その結果、衆議院ではなく参議院の過半数を握る政党が法案の行方を左右することになりました。

 衆参両院を自民党が握っていた時代は、参議院自民党の実力者が「天皇」とか「法皇」と呼ばれました。総理大臣も敵わない権力を握っているという意味です。そのため参議院は表向き「良識の府」と呼ばれますが、政界では昔から「政局の府」と呼ばれてきました。佐藤栄作元総理は「参議院を制する者が政治を支配する」と語っています。昨年の選挙でその参議院を野党が握ったのですから大変です。政治に深刻な「ねじれ」が生じました。

  現在の与党はたまたま衆議院で三分の二を越える議席を持っています。しかしこれは普通ではありません。過半数は超えても三分の二まではいかないのが普通です。次の総選挙で与党の議席数が普通になれば、今の制度では与党が提案する法案も野党が提案する法案も国会では1本も成立しない可能性が出てきます。

  大統領制のアメリカでは大統領と議会との間に「ねじれ」が生じます。それでも政治を機能させるため、アメリカでは議員に党議拘束をかけません。ところが日本は議院内閣制ですから、選挙で過半数を得た政党の党首を総理にするために党議拘束が必要です。このため「ねじれ」を回避する方法がありません。憲法は日本の政治に救いのない仕組を作ったことになります。

 「ねじれ」で政治が機能しなくなると、メディアは「野党が反対ばかりするからだ」と批判しますが、野党が国会で反対を貫くのは民主主義の基本です。むしろ与党が野党に歩み寄らない限り政治は動かないと言うべきです。しかし衆議院選挙で過半数を得た政党の主張が通らないというのもおかしな話です。これは制度の欠陥、憲法の欠陥と考えるべきです。この点だけでも今の憲法は改正すべきだと私は考えますが、誰もそのことを指摘しません。

  かつては「首相公選制」の議論がありました。総理大臣を直接国民が選ぶ仕組みです。それなら日本はアメリカ型の民主主義に近づきます。党議拘束をなくして「マニフェスト選挙」や「党首討論」をやめれば良いのです。ところが大統領制の国では大統領が国家元首です。日本国憲法は元首を規定していませんが、戦前は天皇が元首でした。このため今でも天皇を元首と考える人たちがおり、大統領型の総理に反対します。そうした事情で「首相公選制」の議論は今では下火になりました。

 最近では「マニフェスト選挙」や「党首討論」を政治改革だという人たちがいます。これは日本の政治をイギリス型に近づけようとする考えです。それも一つの方法ですが、その場合には政党を強くして本格的な政党政治を実現させなければなりません。自民党や民主党のような議員の集合体としての政党ではなく、共産党や公明党のように統制力のある政党がイギリス型です。政党が政策立案能力を持ち、政党中心の選挙、つまり候補者の個人講演会や地縁、血縁に頼る選挙をやめなければなりません。

  しかしそれが今の日本に出来るでしょうか。半世紀以上も続いてきたアメリカ型の国会運営と選挙の仕組みを変えるのは簡単ではありません。日本国民はアメリカ型の民主主義に慣れ親しんできました。共産党や公明党よりも自民党や民主党のような政党を民主主義の政党だと考えます。その考えを変えるには時間が必要です。

  そしてもっと問題なのは戦後民主化政策によって実は明治以来続いてきた官僚主導の政治がますます強くなった事です。大日本帝国議会の時代よりもさらに国会が官僚の手の平に乗せられました。日本の民主主義を強くするには、国会自身が官僚支配から脱するという別の課題もあるのです。(続く)

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ニッポン維新(21) 戦後民主化で生まれた国会も大問題(2)

 イギリスはアメリカと違って議院内閣制です。選挙で勝った与党の党首が議会で首相に選ばれます。日本と同じです。しかしイギリスの議会は本会議中心主義で、選挙で選ばれる下院と世襲の貴族院とで構成されています。これは戦前の大日本帝国議会と同じです。ただ戦前の日本と違うのは、下院が強く、貴族院には下院の決定を覆す権限がありません。二院制と言っても事実上の一院制と言えるかもしれません。


 イギリスの選挙は「マニフェスト選挙」です。候補者よりも政党の政策を選ぶ選挙です。候補者は自分の名前を連呼する事をしません。戸別訪問で政党の政策を説明して歩きます。「候補者は豚でも良い」と言われるほど候補者よりも政策が優先される選挙です。選挙の主役は候補者でなく政党なのです。候補者がどの選挙区から立候補するかは政党が決めます。政党は候補者と地元の癒着をなくすため地縁・血縁のないところから立候補させます。そうやって初めて候補者よりも政策が優先される「マニフェスト選挙」になります。

  日本の選挙のやり方はアメリカ式で候補者を選ぶ選挙です。それなのに最近では「マニフェスト選挙」などと言います。「マニフェスト」を掲げれば「マニフェスト選挙」になる訳ではありません。候補者を個人後援会ではなく政党に従属させ、地縁・血縁とは無関係の選挙区から立候補させ、候補者ではなく政党の政策が主役にならなければ「マニフェスト選挙」にはならないのです。世襲議員が続々生まれてくる選挙を「マニフェスト選挙」などと言うのは国民を騙すだけです。

  「マニフェスト選挙」で勝った与党の政策は国民の支持を得た事になります。議員には党議拘束がかけられ与党の法案は必ず議会で成立します。アメリカのように法案を廃案に追い込むための審議妨害や駆け引きはありません。本会議中心主義の議会では第一読会から第三読会まで段階を経て議論を重ね、政策を磨いていきます。少数意見を尊重するのが民主主義ですから、野党の意見も採り入れてより良い修正を目指します。

  党議拘束があれば野党がいくら頑張っても法案を阻止することは出来ません。野党は議会で法案を阻止するよりも、内閣に対抗する「影の内閣」を組織し、政策立案能力を競います。本会議場では内閣と向かい合う形に「影の内閣」が座り、毎週行われる「党首討論」では政権批判を行って国民にアピールします。野党にとって最も大事なことは国民に支持される「政策」を作成して次の選挙に備えることです。議員が法案を作るアメリカと違い、政党が政策を作ります。議員が主役ではなく政党が主役の政治、それがイギリスです。

 これまででお分かりのように日本の政治はイギリスとアメリカの折衷です。しかしどちらとも違います。「両方の良い所を取った」と言う人もいますが、私は全く逆で「異質な民主主義を接ぎ木」した事で混乱が始まったと思っています。イギリス型の「マニフェスト選挙」と言いながら、政策よりも候補者を選ぶアメリカ式の選挙をやり、それで選ばれた議員が国会に行くとイギリス式に党議拘束をかけられます。ところが国会はアメリカと同じ委員会中心主義で審議妨害や審議拒否に明け暮れます。そのくせ時々イギリス型の「党首討論」をやらなければ民主主義でないなどと言います。何がなんだか分からない政治です。

 メディアは知ってか知らずか「マニフェスト選挙」と「党首討論」を異常なほど評価します。ところが戸別訪問も認めず、名前を連呼するだけの選挙を批判しません。さらに「マニフェスト選挙」とは切っても切れない「党議拘束」を批判します。一方でアメリカの民主主義を評価しながら、野党が抵抗戦術を駆使すると「政局だ」と言って批判します。何を基準に民主主義を考えているのかさっぱり分かりません。

  もっと馬鹿馬鹿しいのは党議拘束で結果が分かっているのに、本会議の採決を「国会議員の最重要の仕事」などと言う事です。結果が分かっている採決はただの儀式です。最近、本会議場で携帯電話を使う議員が問題になりましたが、意味のない儀式に付き合わされているから緊張感がないのです。少し前に小沢民主党代表が本会議の採決を欠席したと言ってメディアは大騒ぎをしました。そんな事より空虚な儀式を金科玉条のごとく押し頂いて疑問を感じない議員の怠慢をこそ批判すべきです。本会議に出席することが議員の最重要の仕事だなどと言うのは小学生レベルの民主主義です。メディアによって日本の民主主義はますますレベルを下げられているのです。(続く)

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ニッポン維新(20) 戦後民主化で生まれた国会も大問題(1)

 議会先進国でありながら大日本帝国議会の時代は日本の政党政治が官僚政治との戦いに連戦連敗しました。やがて軍部の台頭と共に力を失い、昭和7年の5・15事件で犬養毅首相が暗殺されると政党政治に終止符が打たれます。それからは軍人内閣が続き日本は戦争への道を突き進みました。


 敗戦によって日本の政治は大きく変えられます。日本を占領したGHQは軍国主義を一掃して民主化政策を進めました。昭和22年に大日本帝国憲法が廃止され、日本国憲法が施行されて世襲貴族からなる貴族院と華族制度が廃止されました。日本国憲法は唯一の立法機関として大日本帝国議会に代わり国会を設置します。国会は衆議院と参議院の二院で構成されることになりました。

 マッカーサー草案では貴族院を廃して衆議院のみの一院制にするはずでした。しかし日本側がこれに強く反発し、GHQは議員を選挙で選ぶ事を条件に二院制を認め、貴族院に代わって参議院が生まれました。こうした民主化政策によって日本にも政党政治が花開くかと思われましたが違いました。民主化政策で生まれた国会も大きな問題をはらんでいました。

 日本の政治はイギリスと同じ議院内閣制です。国民に選ばれた国会議員の中から行政の長である内閣総理大臣を国会が選びます。国民が直接行政の長を選ぶ大統領制とは異なります。ところが総理大臣をイギリスと同じやり方で選ぶのに、国会の仕組みはイギリスと同じではないのです。GHQによって作られた国会は大統領制のアメリカ議会と同じ仕組みでした。これが日本の政治に混乱をもたらします。私はイギリスの議院内閣制とアメリカの議会制度がくっついた政治の仕組みを「接ぎ木民主主義」と名付けていますが、日本政治の混迷の素がここにあるのです。

 そこでまずアメリカとイギリスの民主主義の違いを簡単に説明します。アメリカは大統領と上下両院議員を直接国民が選びます。すると大統領の所属政党と議会の多数党が異なる場合が出てきます。つまり「ねじれ」が頻繁に生じます。そこで議員に党議拘束をかければ、大統領が提案する法案は議会で1本も成立しないことになります。それでは政治は機能しません。国民が困るだけです。ですからアメリカには党議拘束がありません。共和党大統領に賛成する民主党議員がいても選挙民が納得すれば構わないと考えます。昔「レーガン・デモクラット」と言ってレーガン大統領を支持する民主党議員がいました。その選挙区ではレーガン大統領を支持する民主党員が多かったからです。大事なことは選挙民の意向です。ですから議員の投票行動は必ず報道されます。選挙民は自分の選んだ議員がどの法案に賛成したかを見て支持と不支持を決めます。

 「マニフェスト選挙」は政策を選ぶ選挙ですから、選ばれた議員は党議拘束で縛られます。選挙で公約した政策を後になって裏切られては困るからです。党議拘束をかけないアメリカの政治には従って「マニフェスト選挙」はありません。アメリカの選挙は政策ではなく候補者を選びます。候補者は「私は選挙民のために働く」と言って個人名を売り込みます。日本の選挙と同じです。日本では最近「マニフェスト選挙」などと言い出しましたが、選挙のやり方は「マニフェスト選挙」ではないのです。

 アメリカの議会は委員会中心主義です。法案を少人数の委員会で時間をかけて審議して採決し、その結果を全員が集う本会議で再び採決し直して成立か廃案かを決めます。委員会中心主義のアメリカでは法案成立を巡って激しい駆け引きが行われます。審議妨害や審議拒否もあります。審議拒否をやっているのは日本だけではないのです。

  アメリカでは党議拘束がないので採決がどうなるかは最後の最後まで分かりません。大統領は反対党の議員にも電話をかけまくって支持を求めます。日本がアメリカと違うのは委員会中心主義なのに党議拘束があることです。党議拘束があるのは日本が議院内閣制を採っているからです。ところが採決の結果がはじめから分かっているのに国会では激しい駆け引きが行われます。駆け引きをするのは委員会中心主義だからです。ここに日本政治の混乱の素があります。

  アメリカでは大統領が提案する法案もありますが多くは議員立法です。議員が立法するためには議員に十分な情報が与えられる必要があります。議員には国費で10名以上の政策スタッフがつけられます。また議会には立法を補佐する専門のシンクタンクがあり、その他にも政党のシンクタンク、民間のシンクタンクなどが議員立法を助けます。ワシントンはシンクタンクだらけの街です。霞ヶ関の官僚だけが立法作業を行っている日本とは大違いです。それではイギリスはどうなっているのでしょうか。(続く)

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ニッポン維新(19) 官僚政治と政党政治との戦い

 天皇を後ろ盾とした官僚政治によって議会が無力化されたと言っても、日本が絶対君主制のような時代を迎えた訳ではありません。明治政府の「富国強兵」政策は日本の資本主義経済を急速に発展させ、国民に政治参加と自由を求める意識を植え付けました。坂本龍馬を源流とする自由民権運動は勢力を伸ばし、薩長藩閥政府に対抗する強力な政治家も現れました。その一人が星亨です。


 星は江戸の左官屋の息子に生まれ貧しい幼少時代を送りましたが、英語を学んだことから維新後に海援隊で坂本龍馬の腹心だった陸奥宗光と出会います。陸奥は薩長藩閥政府に批判的で、一時は反政府運動に加担した容疑で投獄されますが、出獄後は伊藤博文の推薦で外務省に入り、外務大臣として辣腕を振るいました。陸奥と親交を深めていた星は、陸奥の推挙で政府の官僚となり、その後イギリスに留学して帰国後は日本初の弁護士となります。星は陸奥と同じく藩閥政府に批判的で、明治15年に板垣退助らが自由党を結成すると、いち早く入党して自由民権運動に身を投じました。

 明治23年の議会開設に対して藩閥官僚政府はプロシアのビスマルク流の姿勢をとります。政府は議会や政党から制約されないと宣言したのです。これを「超然主義」と言い、議会を無視する「超然内閣」が日本を統治する事になりました。大久保利通や伊藤博文がプロシアのビスマルクにあこがれた影響がこうした形で表れました。ここに官僚政治と政党政治との戦いが始まります。

 明治25年に衆議院議員に当籤した星は衆議院議長となって政党政治の基礎を作るべく活躍しました。星は超然主義に行き詰まりを感じて考えを変えた伊藤博文から信頼され、伊藤内閣で逓信大臣を務めます。彼は積極財政によって鉄道建設などに力を入れ、地方への利益誘導を図り、そのことで国民の支持を拡げて政党政治を強固なものにしようとしました。星の行動力は政敵から恐れられ、収賄などの噂が絶えず立てられ、東京市議会議長在職中の明治34年に義憤を感じた教育者によって暗殺されました。星は金権政治家と言われましたが、遺族に残されたのは資産ではなく2万円の負債だったと言います。

 星の後を継いだのが後に平民宰相として知られる原敬です。原は新聞記者から外務省に入りますが、陸奥宗光の知遇を得て外務次官に抜擢されます。陸奥が健康問題で外務大臣を辞任すると原も外務省を辞め、一時は新聞社に戻りますが、伊藤博文が政友会を組織して政党政治に力を入れるようになると政友会の幹事長になりました。そして星の後を継いで逓信大臣となり、星と同じ手法で政友会の党勢拡大に力を入れました。

 明治35年に衆議院議員となった原は、大正7年遂に第19代内閣総理大臣に就任します。衆議院に議席を持つ政党の党首が総理になったのは日本ではこれが初めてです。日本にも本格的な政党内閣が誕生したのです。原内閣は外交では英米との協調、内政では積極財政政策、そして統治機構内部に政党の権限を拡張することの三つを重点課題としました。内政では特に高等教育の充実と鉄道網の敷設に力を入れました。原は卓抜な政治力で官僚派の拠点である貴族院を分断し、官僚の自由任用制の拡大によって徐々に官僚の力を削ぎ落としていきました。

 しかし原もまた金権政治家のレッテルを貼られました。大正10年、義憤に駆られた国鉄職員に東京駅頭で刺殺されます。死後原には私産がないことが分かりました。強力な政党政治家が出てくると決まって金権政治家のレッテルが貼られて政治生命が絶たれる。官僚のメディアコントロールが功を奏するのです。これが戦前の官僚政治と政党政治の戦いの結末です。しかしそれは戦後に於いても変わっていないのではないでしょうか。ロッキード事件を取材し、その後田中角栄氏を間近で見てきた私にはそう思えてなりません。(続く)

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ニッポン維新(18) 日本が議会先進国なのを知っていますか?

 学校で「国権の最高機関」と教えられる国会について、国民はほとんど実像を知りません。NHKのテレビ中継が時々あって審議の一部を見る事は出来ますが、丁々発止の議論と言うより、非難の応酬か、ぬらりくらりとしたやりとりを見せられるためか余り興味を持てません。


 国会は面白おかしい所ではありませんから、国民が固唾を呑んで見守る必要はありませんが、余りにも実像が知らされないため、誤解も色々あって政治不信に陥る原因になったりします。そこで少し国会について説明をしたいと思います。

 日本で議会が始まったのは明治23年(1890)で、実に一世紀以上も前から日本人は力ではなく議論によって物事を決する制度を持っていました。鎖国をしていた東洋の島国がこんなに昔から議会制度を取り入れていた事は世界から「奇跡」と言われています。アジアは勿論、世界でも日本は議会制度の先進国なのです。

 何故そうなったかを調べると坂本龍馬の「船中八策」に辿り着きます。幕末に薩長同盟を成功させた龍馬は、実は武力で幕府を倒そうとする人たちとは意見を異にしていました。龍馬に言わせれば「黙っていたって幕府は倒れる。倒す事に力を入れるより、次の時代をどう作るかを考える方が重要だ」という事です。維新の志士と言われる人たちの中で龍馬が傑出しているのはこの点です。慶応3年、長崎から京都に向かう船の中で龍馬は自らが考えていた新政府の基本方針を土佐藩士の後藤象二郎に示します。それが「船中八策」です。

 龍馬は「徳川が政権を朝廷に返すこと。二院制の議会を作り、議員を選んで議論で政治を行なう事。従来の世襲制ではなく、有能な人材を登用する事。新しい国の基本法(憲法)を作る事。外国との間に平等な条約を結び直す事。海軍の力を強くする事。都を守る兵隊を置くこと。外国との間でお金の比率を同じにする事」を基本方針として示しました。

 ここに初めて議会制度が提案された事になります。これが明治政府の基本方針である「五箇条のご誓文」第一条の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に転用されたと言われています。しかし「五箇条のご誓文」と坂本龍馬の考えには天と地ほどの開きがあります。「五箇条のご誓文」は明治維新を成し遂げた木戸孝允らが書きましたが、議会の構成員を大名とその藩士に限ると考えています。しかし龍馬の思想は町人や農民にまで門戸を広げた「普通選挙」によって議員を選ぶものでした。その事は龍馬が暗殺された翌年に海援隊が出版した「藩論」を読むと良く分かります。私が「ニッポン維新」の冒頭に「坂本龍馬の夢を追え」というタイトルで、「維新未だ成らず」と書いたのはその事です。

 明治維新は龍馬の新政府構想を実現したものではありません。「士農工商」という身分制を廃して「万民平等」の社会を考えていた龍馬とは異なり、明治政府は明治2年に「皇族、華族、士族、平民」という新たな身分制を作りました。ついでプロシアのビスマルクにあこがれていた伊藤博文が官僚制度を作りました。ビスマルクは「鉄血宰相」と言われたように、鉄(大砲)と血(兵隊)によって政治を行う思想の持ち主で、議会は邪魔なものだと考えていました。明治政府はプロシアの影響を受け、皇帝と軍隊と官僚の政治を真似するようになりました。

 これに対して薩長藩閥政府に批判的な勢力は坂本龍馬が唱えていた議会開設を求め、これが自由民権運動となります。板垣退助らの自由民権運動は、明治政府に弾圧されながらも、明治22年に大日本帝国憲法の制定を実現させ、23年に初の衆議院選挙と議会開設に漕ぎ着けました。

 初の衆議院選挙は税金を15円以上納めた国民が有権者で、それは全体の11%に過ぎませんでしたが、選ばれた300人の議員のうち173人は民権派議員で、大日本帝国議会は官僚政府に批判的な勢力が過半数を占めました。そのため予算案が通りません。すると官僚政府は「予算は天皇の大権に基づく」として修正を認めず、民権派議員は徹底した切り崩しにあいます。以来、議会は無力化され、天皇の権力をバックにした官僚が日本の政治を支配するようになったのです。(続く)

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ニッポン維新(17) 国対政治とは何か

 日本の政治が諸外国と異なるのは「国対政治」に原因があるとよく言われます。「国対政治」は与野党の馴れ合いを生み、民主主義に反すると多くの人が思っています。しかし多くの人は「国対政治」の実態を知りません。知らずに批判しています。かつての55年体制時代の「国対政治」は問題でした。しかし現在の日本の政治にかつてのような「国対政治」はありません。今でも「国会対策委員会」という組織はありますが、かつてのような「国対政治」とは無縁です。今回はその事を説明します。


 議会に提案された法案を成立させるために与党と野党は様々な駆け引きを繰り広げます。その駆け引きは議会の裏舞台で一部の与野党幹部によって行なわれます。議事運営を円滑に進めるためにどの国の議会でも裏交渉は行われます。それは民主主義に反する事にはなりません。しかしかつての日本の「国対政治」には与野党の裏交渉を超える問題がありました。

 日本の国会には他の国々にはない独特の仕組みがあります。予算委員会が他の委員会とは別格の特別の存在になっています。予算委員会には総理大臣以下全大臣が出席し、それがNHKによってテレビ中継されます。すると予算委員会は予算に関する質疑ではなく、最も国民に関心のある問題を取り上げて、野党が総理大臣を追及する場になります。こういう仕組みは他の国にはありません。

 55年体制下ではこの予算委員会が「国対政治」に利用されました。テレビ中継の中で決まって「爆弾男」と呼ばれる野党議員がスキャンダル追及を行い、必ず審議が止まったのです。NHKは「慣例」と称して予算委員会の最初の2,3日しか中継しません。そこからテレビ中継と審議拒否が連動するようになりました。NHKの国会中継が終る頃にスキャンダル追及が行なわれ、必ず野党は審議拒否に入ります。しかしテレビ中継が終っているため国民は全ての委員会が審議されていない事に気づきません。野党の審議拒否は2月上旬から3月末まで続きました。

  そこからが「国対政治」の本番です。与党と野党の幹部が1対1で交渉し、誰にも知られずに全ての法案の帰趨を決めるのです。1つの国会には百本近い法案が上程されますが、それを「成立」、「継続」、「廃案」に分類するのです。それには法案の中身だけでなく、与党と野党が抱えるあらゆる問題を絡めて交渉が行なわれました。例えば官公労のストライキの処分を撤回してもらう代わりに与党が通したい法案の成立を是認するといった具合です。こうして与野党の誰もが知らないうちに、そして審議もしないうちに全法案の運命が決まりました。

  予算案成立のタイムリミットぎりぎりの3月末に野党は審議に復帰します。そこから国会の会期末までは2ヶ月位しかありません。その短期間に「成立」に分類された法案が一斉に審議入りし、ろくな議論もないまま採決され成立します。法案を書いているのは霞が関の30代の官僚ですが、ある課長補佐が私に「自分の書いた法案が成立するのはうれしいが、議論もしないで成立して、これで日本の将来は大丈夫だろうか」と言った事があります。与党議員の中でも真面目な議員は皆疑問を感じていました。

 さらに審議拒否から復帰する過程で野党には与党からカネが流れました。次第にカネを要求するために野党が審議を止めるようになりました。これが世界に例のないわが国の「国対政治」の実態です。なぜそんな事になったかと言えば、政権交代を望まない野党が存在したからです。政権を取ろうとしない野党は、権力を獲得する事に力を入れるよりも、法案の修正や、法案以外の諸要求を実現する事に力を入れました。そのため国会運営の裏交渉の場をそうした事に利用するようになったのです。

 90年代初頭になって「国対政治」から脱するために「政治改革」が叫ばれました。小選挙区制の導入によって政権交代が実現しやすい政治体制が確立されました。今では権力を奪おうとする野党が登場したので、かつてのような「国対政治」は存在しません。現在の国対は他の国の議会と同じように法案を巡る駆け引きを行なっています。ところが国民の中には国会で駆け引きする事そのものを悪だと思ったり、法案を成立させないように野党が抵抗する事を「政局を優先している」と批判する人がいます。これらは議会制民主主義の国ならば当たり前で全くおかしな事ではありません。「国対政治」の実態を知らない人が勘違いをしているだけなのですが、この国ではメディアを初めとして勘違いの人が多すぎます。(続く)

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ニッポン維新(16) 官僚が法律で日本を支配する方法

 1999年、茨城県東海村の核燃料加工施設で臨界事故が起こり作業員2名が被曝して死亡しました。当時の小渕総理がテレビで周辺住民に外出禁止を呼びかけ、交通機関もストップするなど大騒ぎになりました。原因は核燃料の加工処理を請け負っていた住友金属鉱山の子会社が、国の規定に沿った「正規マニュアル」ではなく、「裏マニュアル」で作業していたためです。正規マニュアルで決められた「装置」を使う代わりに人間が「バケツ」でウラン化合物の溶液を運んでいました。正規マニュアル通りにすると採算が取れないのが理由でした。


  会社側の刑事責任が問われ、労働安全法違反、原子炉規制法違反などで関係者6名が執行猶予付きの有罪判決を受けました。立ち入り検査を行なっていた科学技術庁の安全管理体制や事業を発注していた旧動燃の要求の正当性についても疑問がもたれましたが、結局責任は追及されませんでした。

  この事件を巡って私は旧通産省出身の政治家からこんな話を聞きました。「役所がバケツで溶液を運んでいた事実を知らなかったはずはない。知っていたが目をつむっていた。一般的に日本の法律は厳格にしてある。法律を守ると採算がとれない事もあり、みんな違法すれすれをやる。役所はお目こぼしをしていちいち摘発しない。そこに官僚が強くなる秘訣がある。摘発されたくなかったら官僚の言う事を聞く。逆らえば摘発される。そして違法が表に出れば当事者だけが裁かれる。お目こぼしをした官僚は裁かれない」。

  私はスピード違反を思い出しました。ドライバーが速度制限を厳格に守っている事はまずありません。守っていたらかえって交通渋滞が激しくなるかもしれません。ほとんどのドライバーは違法状態で走っています。捕まえる側は普段は見過ごしていますが、その気になればいつでも捕まえる事が出来ます。これと同じ事がどこにでもあるということです。

  日本人は法律は厳格な方が良いと考えがちですが、現実と乖離しすぎるとかえっておかしな事になります。前にも書きましたが政治資金規正法は「規制」を厳格にするほど政治資金の実態が闇の世界に入っていきました。そしていくら「規制」をしても政治資金を巡る不祥事は絶えません。国民はますます政治家に対する信頼を失くして政治不信に陥ります。それは官僚にとって望むところです。

  厳格な法律という意味で私が最も問題にしたいのは公職選挙法です。とにかく諸外国に比べて制約が多すぎます。選挙民を買収する恐れがあるという理由で戸別訪問が禁止されています。世界中に戸別訪問を禁止している国などあるでしょうか。私は知りません。アメリカでもイギリスでも戸別訪問こそが選挙運動です。特にマニフェスト選挙を行っているイギリスでは戸別訪問でマニフェストの説明をする事が選挙です。候補者の名前を連呼して歩く事はしません。候補者よりもマニフェストが大事だからです。ところがわが国ではマニフェストが大事などと言いながら戸別訪問が禁止されています。本当の意味でのマニフェスト選挙など出来るはずがありません。

  テレビの選挙報道も他の国に比べて制約されています。公示前まで盛んに行なわれる候補予定者の討論が選挙が始まると行われなくなり、投票当日には政治報道番組が全く姿を消します。おかしな話です。最も情報が必要な時に放送を自粛するのです。かつて公職選挙法で取り締まられた前例があるため放送局は萎縮しているのです。そして選挙資金にも制約があるため選挙期間はわずかに12日間、金がなくとも発信できるインターネットも利用できないのでは、有権者に選挙を判断するための情報を与えないようにしているとしか思えません。

  それは結果的に現職が有利、すなわち現状維持、つまり政権交代を防ぐ役割を果たしています。そして永田町ではこんな事も言われています。「厳格に公職選挙法を守っていたら絶対に当選できない。法を破ってこそ初めて立法者になれる」。ブラックユーモアと言って笑って済ませられる話ではありません。法律に対する考え方を変えないと国民は自縄自縛に陥ります。そして守れない法律を作る事が官僚が国を支配する方法なのです。(続く)


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ニッポン維新(15) 法律は誰が作っているのか

 国会は「国権の最高機関」であり「唯一の立法機関」と呼ばれます。国民に選ばれた代表が集まり、そこで法律を決めるからです。それでは法案を書いているのは誰なのでしょうか。国会議員なのでしょうか。国会議員が法律を作る事を「議員立法」と言いますが、実は「議員立法」は極めて少ないのです。法律の大半は「内閣法」と言って、霞が関の官僚が作っています。国会は官僚が作成した法案を承認し成立させているに過ぎません。


 これまでの国会の歴史で最多の「議員立法」を行ったのは田中角栄氏です。46本提案して33本成立させました。特に36歳までの若かりし頃に5年間で26本も提案しています。党の幹部になり、或いは閣僚として関わったものを含めると120本になると言われます。最近話題になった道路特定財源の仕組みを作ったのも角栄氏の議員立法でした。当時の日本の状況を考えると必要な法律です。日本の高度成長に大きく貢献したと思います。しかし時代が移り必要がなくなっても既得権益はそれにしがみつきました。角栄氏が現代に生きていたら道路特定財源とは異なる仕組みを考え立法したと思います。

 立法府に所属する国会議員が立法する。それが当たり前だと皆さんは思っていたのではないでしょうか。ところが実態は違います。ほとんどの法案を行政府の官僚が作っているのです。民主主義の三権分立とは、国民の代表が法律を作り、その法律に従って官僚が行政の実務を行う事なのですが、この国では官僚が行政府に都合の良い法律を作り、それに従って行政が行われています。政治の主役が政党ではなく、官僚である事を端的に物語る事実です。

 
それでは何故議員立法が少ないのでしょうか。議員立法をするのに制約があるからです。まず衆議院では20名以上、参議院では10名以上の賛同者が必要です。賛同者を集めても所属会派が賛成しないと議会事務局が法案を受理しない事になっています。こうした制約は、目立ちたがり屋の政治家が地元や業界のために「利益誘導」する法案を提案するのを防ぐために議員たちが決めました。

  私はいつも不思議に思うのですが、民主主義政治というのは立場の異なる人々の利害の調整を行う事です。若者と年寄り、男と女、お金持ちと貧しい人、健常者と障害者、都市と地方、北と南、それぞれ立場の違う人々が「共生」するためにどうすれば良いか、それを決めるのが民主主義政治です。そのために自分たちの立場の代表を選挙で選びます。ですから議員にはその立場を主張してもらわなければなりません。議員の仕事は支持者の利益を主張する事、つまり自分の支持者への「利益誘導」ではないかと思うのです。ところがこの国では「利益誘導」はやってはいけない事のように言われます。他の国ではない事です。ともかく日本ではそういう理由で議員たちが自分の手を縛りました。

  さらにより重要な事が法案を作成するための情報です。日本という国は情報を全て霞が関の官僚機構が握っています。官僚に助けてもらわないと立法ができない仕組みになっています。立法府にも一応は国会図書館に「調査立法考査局」という立法補佐機関があります。また衆参両院にそれぞれ「法制局」があって立法作業の相談に乗ってくれる事になっています。ところがこれらの機関には独自に情報を収集する能力がなく、おかしな事に行政府の下部機関のような存在になっています。従って議員たちは誰も立法府の機関を利用せず、みな霞が関を向いてしまいます。立法府の立法補佐機関が現状のままであるならば税金の無駄遣いと言わざるを得ない現実があります。

  官僚がこの国を支配できる鍵は「情報の独占」です。それが官僚支配のからくりです。霞が関に誰もが逆らえないのは情報がそこにしかないからです。そして立法を官僚が行う事で官僚の権力が強まります。立法を立法府の議員が行うという本来の姿になればこの国の官僚支配はあっという間に崩れます。

  私はかつて「国会テレビ」という議会中継専門テレビ局の設立を提案した事があります。55年体制末期の政治が余りにひどいので、議会のありのままを国民に公開する事で、政治を良くしようと思ったからです。それは1970年代にアメリカ議会が行った政治改革を真似する事でした。ベトナム戦争とウォーターゲート事件で政治不信が頂点に達したアメリカでは、議員たちが政治不信を取り除くために政治の「透明化」を図りました。情報公開法を制定して行政情報を公開し、議員、官僚、裁判官の資産を公開し、議会の審議も映像で公開する事にしました。79年にC−SPANという政治専門チャンネルが出来て放送を開始しました。私はC−SPANのようなテレビを日本にも作ろうと思いました。

  テレビには免許が必要なので当時の郵政省事務次官に構想を話したところ、こう言われました。「田中さんの構想は日本のためには良い事です。でも私の目の黒いうちは実現して欲しくないなあ。テレビで国会が公開されたら議員の先生方が奮起して自分で立法するようになる。すると優秀な学生が役所に来なくなって、みんな政治家の秘書になって立法を助けるようになる。それでは霞が関の力は低下してしまいます」と。(続く)

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ニッポン維新(14) 政治とカネの本当の話(3)

 「金権政治家」田中角栄総理が退陣すると、その後に誕生した三木内閣は政治資金規正法の改正に取り組みました。金権腐敗の政治を正すことが急務というわけです。ところで政治資金規正法の「規正」が「規制」でないのは、民主主義は言論活動や政治活動の自由を保障する事が大事で、政治資金についても法律で「規制」すべきではないと考えられるからです。


  政治資金規正法は、戦後の混乱期に弱小政党が乱立し、政治腐敗が後を絶たなかったことから、昭和23年に議員立法で成立しました。法律の目的は政治資金の流れを国民が監視できる「透明化」にあります。この法律はその後手付かずにきましたが、三木内閣はそれを大改革する事にしました。政治資金の収支の公開を強化すると同時に政治献金の額の「制限」に踏み込みました。政治資金を「規制」する事はクリーンのようですが、一方では政治献金に「良からぬもの」というイメージを植えつける事になります。

  その翌年にロッキード事件が起こると、田中角栄氏に5億円を渡した商社丸紅が摘発されました。丸紅は政治献金だと主張しましたが、賄賂と認定されて贈賄容疑で幹部が逮捕されます。前にも言いましたが、それまで税制上政治献金と認められてきたのは大企業の「交際費」です。しかしロッキード事件を見て大企業は政治献金から手を引くようになりました。

 大企業に代わって積極的に政治献金を行うようになったのがベンチャー企業です。その代表例が江副浩正氏が率いるリクルート・グループでした。政治献金の額が制限されていますから、江副氏は違う方法を考えました。政治家に自分の傘下のファイナンス会社から融資し、その金で儲かるのが確実な未公開株を買わせました。株を上場すれば巨額の利益が懐に入ります。リクルートはこのやり方で未公開株を政界、官界、財界、マスコミなどにばら撒きました。それが発覚すると日本社会は「濡れ手で粟」と批判し、リクルート事件は一大スキャンダルへと発展しました。

 また絵画が政治献金の方法として利用されました。絵画には驚くほど高価なものがあります。絵画そのものは美術館に置いたまま所有権を移転すれば、莫大な金のやり取りが可能です。本来表に出せない金の移動は全て現金です。銀行の口座や小切手を使うと証拠が残るからです。しかし現金は運ぶのが大変です。その点で絵画は便利でした。何も動かさずに資金の移動が出来ます。竹下登氏が関わったとされる「金屏風事件」はそれが表に出た1つの例です。

 このように政治資金を「規制」した結果、政治献金はどんどん地下に潜って、闇の世界に入り込みました。アングラ勢力の金が政治の世界に入り込むようにもなりました。バブル期に日本の銀行がヤクザに絡め取られて不良債権を累積させたように、政治の世界にもヤクザの力が浸透しました。公共工事の談合を仕切っているのは裏社会です。それに政治が振り回されるようになりました。

 アメリカ大統領選挙は1年がかりで行われます。その長い戦いで候補者同士が何を競い合っているかといえば、政策などではありません。どんな個人攻撃にも耐えられる強靭な精神力と長い選挙を支えるための資金です。多くの人に献金したいと思わせる政治家にはリーダーの資格があります。集金能力は政治家に不可欠の資質なのです。ところが日本では政治献金が闇の世界とつながり、ますます「規制をしろ」という事になるのです。

  政治資金がなければ政治活動は出来ません。ソ連が崩壊した時、その歴史的瞬間を自分の目で確かめようとアメリカでは多くの議員がモスクワに行きました。ところが日本の国会議員は誰一人モスクワに行きません。日本の議員はもっぱら国会の閉会中に国会の費用、つまり税金で意味のない海外視察に出かけます。冷戦の終わりという世界の構造変化に反応しない議員に私はがっかりしました。しかしコソボ紛争が起きた時、自民党の若手議員が自費で安い航空チケットを買い現地に行った話を聞いて感動しました。そういう議員が現れた事は喜ばしい限りです。そうした事のために政治資金は必要なのです。

  私は政治資金を「規制」するのは間違いだと思っています。むしろ政治献金を闇の世界から日の当たる場所に出して、どんなに多額の金を集めても使い道さえ納得できれば問題にすべきでないと思います。大事な事は「入り」と「出」をはっきりさせる事です。しかし実は政治家は「入り」と「出」をはっきりさせる事が嫌なのです。これまでの司法の動きを見ると、大体10年に1度の割合で政治家が逮捕されます。それに自分が引っかからなければ10年間は安泰です。そう考えて政治資金を好きなように使いたいのです。

  逮捕を免れるためには官僚と仲良くして霞が関から睨まれなければ良いのだと考えます。世襲によって議員の地位を私有財産にしている議員ほど政治資金も自分の金と考えまず。だから日本の政治家は政治資金を「規制」することに賛成して、政治資金を「透明化」することに反対するのです。こうして結局は政党助成法という法律を作り国民の税金が政治に投入される事になりました。本来は政党がシンクタンクを作り、国民への広報を充実させる目的の金でした。しかし議員に分配されています。何とも情けない話です。(続く)

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