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ニッポン維新(57) 迷走の果て
小沢秘書逮捕は麻生政権にとって「失地回復」の最大の切り札でした。ところが麻生政権の支持率回復は微増に止まり、民主党との支持率の差を逆転出来ません。麻生政権にとってはショックだったと思います。しかも国会も終盤に入る5月連休明けに狙いすましたように小沢氏は代表辞任を発表し、鳩山由起夫氏が後任に選ばれて、再び自民党と民主党の支持率の差が広がりました。
麻生政権が解散・総選挙を見送ってから、状況を好転させようと打った手はことごとく失敗しました。可哀相な位です。それなら原点に立ち戻り、無理をせずに、自民党再生の方策を考えれば良いと思うのですが、この総理にはそういう頭がありません。相変わらず民主党を批判し罵倒するだけです。まるで子供の喧嘩です。それが国民からどう見られているかを考えようとはしません。自民党も大変な人物を総理に担いでしまったものです。
あまりの資質のなさに自民党も困りました。しかし選んだ責任は自民党にあります。それでも次の総選挙で当選が危うい議員達に余裕はなく、党内から「麻生降ろし」の声が上がり始めました。本音で言えば自分たちが選んだ総理を自分たちで引きずり降ろすより、麻生総理自らの決断で辞任して欲しいのです。そのために色々声を上げているのですが、麻生総理には馬耳東風でした。
麻生総理は金融危機を理由に解散を見送った訳ですから、小出しにしてきた景気対策が一段落した時点で解散を打つのが妥当です。それなら21年度の補正予算案が成立した6月19日が解散に踏み切る節目でした。解散の大義名文は「景気対策で国民の信を問う」です。ところが麻生総理は動きませんでした。これで解散の大義も見えなくなり、何のための解散かが分からなくなりました。
鳩山総務大臣を更迭した時点で「分裂選挙」を仕組む目論見は消えましたから、もはや8月に解散しても「小泉路線の是非を問う」事にも、「世襲の是非を問う」事にもなりません。ひたすら「任期満了に近い」解散になり、解散の名に値しない解散として総理の解散権自体が疑われます。そのためか麻生総理は今度は任期満了からなるべく前倒しする事を模索するようになりました。
とはいえ7月12日の東京都議会選挙に近い日程では公明党が嫌がります。都議選後でなるべく早いタイミングをと考えられたのが8月上旬の選挙でした。念願のサミットから帰国した時点で解散に踏み切り、7月27日公示、8月8日選挙の日程を麻生総理は心に描きました。「解散の大義」など全く頭にはありません。とにかく「麻生降ろし」を防いで、任期満了ではなく「麻生が解散権を行使した」と言われたい一心です。
しかしこれも思うようにはなりませんでした。最後は公明党に押し切られました。解散は7月21日ですが、選挙は8月30日まで先延ばしさせられました。そうしないと選挙協力は出来ないと公明党に脅されました。しかし今度の選挙でどこまで公明党が協力するかは疑問です。公明党にとって権力の座から滑り落ちる政党を支えてもメリットは何もないからです。
こうして事実上選挙戦の火蓋が切られました。公明党のおかげで40日という長い時間が与えられました。色々なことを考える余裕のある選挙です。前回のように「郵政民営化是か非か」の一点に熱狂する愚は繰り返さない事です。右からも左からも上からも下からも、そして昔から今までの日本の政治を考えながら投票する事が可能です。
これまで「ニッポン維新」を読んでこられた方にはお分かりのように、今度の選挙は142年前の幕末に坂本龍馬が夢に見た議会政治をこの国に根付かせるための選挙です。69年前の戦時中に出来上がった官僚主導の計画経済体制を転換するための選挙です。小泉構造改革に対する国民の回答を出す選挙です。自公が生み出した麻生政権の10ヶ月を継続させるかどうかを判断する選挙です。そして何よりも日本国民が歴史上初めて権力を自分の手で作り出し、育てていくための選挙です。つまり「ニッポン維新の選挙」なのです。
もうすぐその答えが出ます。その結果に期待しながらひとまずペンを置き、次回からは選挙後に政治のどこを国民が後押ししなければならないか、政治を育てるとはどういうことかを考えていきます。
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ニッポン維新(56) 迷走のプロセス(2)
就任直後の解散を見送ったことで麻生総理には次のタイミングを仕組む政治力が求められました。しかし解散を仕組むのはそう簡単ではありません。解散とは衆議院議員全員の首を切る事です。誰も喜んで首を切られる者はおりません。総理にとって都合の良い時期は、総理から距離のある者には都合の悪い時期になります。余程の計略と政治力がなければ解散を仕組むことなど出来ないのです。
麻生総理にはご先祖の前例を真似しようとする頭だけで、計略の知恵も政治力もありませんでした。初めに真似をしようとしたのは1948年12月に吉田茂が行った解散です。その年の10月に成立した第二次吉田内閣は政権基盤が脆弱でした。麻生政権とよく似ています。そこで吉田は政権基盤を固めるために2ヶ月後の12月に解散を行い、1月の総選挙で政権基盤を固めることに成功しました。
年末年始の解散・総選挙は異例です。しかし真似をしたい前例がもう一つだけありました。それは1966年の「黒い霧解散」です。当時の自民党は数々の不祥事で国民の支持を失っていました。これも現在とよく似ています。ところが佐藤栄作総理は年末年始の解散・総選挙で善戦し、党内での求心力を高めました。麻生総理が真似したくなる理由です。麻生総理はしきりに「黒い霧解散」に言及し、ご先祖の墓参りをするようになりました。しかし側近と言われる議員達は下がり続ける支持率を見て、年末・年始解散に大反対し、結局総理の夢はかないませんでした。
次に麻生総理が真似をしようとしたのは、1952年8月にご先祖が行った解散です。この選挙で吉田自由党は大勝し野党は惨敗しました。8月解散も珍しい解散です。戦後に二つしか例がありません。もう一つが小泉総理の郵政解散です。この時も自民党が大勝し、野党は大惨敗でした。理由は与党の「分裂選挙」にあります。吉田時代は再軍備を巡って与党が分裂しました。小泉総理は郵政民営化を巡って自民党を分裂させました。与党分裂が逆に与党を大勝に導いたのです。
麻生総理も分裂を仕組もうとしました。盟友の鳩山邦夫総務大臣に「かんぽの宿」問題を取り上げさせ、自らも「郵政民営化に反対だった」と発言して小泉支持勢力を挑発し、西川日本郵政社長を退陣に追い込もうとします。一方で菅選挙対策副委員長には「世襲批判」をさせ、この問題でも党内に分裂の芽を作ろうとしました。しかし政治力がない総理がやるとうまくいきません。あっという間に小泉側の反撃に遭い、ついには鳩山総務大臣を更迭せざるを得なくなりました。これで支持率は決定的に下がりました。
こうした中で3月に東京地検特捜部は小沢民主党代表の秘書を政治資金規正法の虚偽記載容疑で逮捕しました。予想通りのスキャンダル攻撃ですが、そのやり口は強引でボロがいくつも見えました。「秘書逮捕」は世間向けには衝撃的ですが、政治家を摘発する際に必ず行われる検察首脳会議は開かれず、小沢氏の自宅なども家宅捜索されず、狙いは小沢氏本人の訴追より、「道義的責任」をとらせて代表辞任に追い込む事にあります。小沢氏が謝罪して代表を辞任すれば秘書も起訴しない方針に見えます。
ところが小沢代表は謝罪をせずに検察批判を行いました。これに検察は慌てました。急遽別件のゼネコン捜査を行って旧悪を暴こうとしました。しかしそれでも大した成果は得られず、マスコミを使った「小沢辞任コール」を盛り上げるのがせいぜいで、当初の目論見は崩れました。資金を提供した西松建設は森元総理が率いる自民党清和会と密接な関係にある企業ですが、官房副長官がわざわざメディアに対し「事件は自民党に波及しない」と発言する大ポカをやりました。この発言でこれが政治的意図を持った捜査であることがはっきりしました。
それにしても選挙直前に東京地検が政界捜査を行ったことは、日本の民主主義がいかに脆弱なものであるかを世界に示しました。アメリカには日本を「北朝鮮並みの国家」と指摘する知日家がいます。理由は「司法とメディアが行政府に隷属しているから」です。要するに日本は民主主義国家ではなく、司法もメディアも官僚に従属する独裁国家だと言うのです。東京地検による「小沢秘書逮捕」はそうした見方を裏付ける事になりました。(続く)
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ニッポン維新(55) 迷走のプロセス(1)
麻生政権の考えは時間を稼いで状況を好転させ、それから解散・総選挙に打って出るというものですが、状況を好転させるシナリオがある訳ではありません。先送りを決めてからシナリオを作るいわば泥縄です。
すぐに飛びついたのが公明党の主張する定額給付金の支給でした。景気対策として国民一人当たり1万2千円を配る話ですが、景気にプラスかと言えば疑問です。これまでの経験では広く薄くよりピンポイントに金を使う方が経済効果は大きくなります。景気対策より選挙対策としてのバラマキと見るのが妥当でした。建前と本音が乖離しているため具体論になると混乱します。支給の仕方や支給の範囲を巡って政権内部から様々な意見が飛び交い、麻生総理の発言も二転三転しました。信念に裏打ちされていない政策では、金をバラ巻いても支持率の上昇にはつながりません。
そもそも金融危機に立ち向かうポーズだけで状況を好転させようとする所に無理があります。麻生総理の発言は首を傾げたくなるようなデタラメの連続でした。まず選挙を「政治空白」と断定し、「金融危機に政治空白は許されない」と発言しました。しかし金融危機の震源地であるアメリカでは、その頃大統領選挙と上下両院の議会選挙の真っ只中でした。選挙の争点はそれこそ「金融危機からアメリカを救えるのはどちらの政党の政策か」です。アメリカ国民は金融危機に対する政策を選挙で選ぶことが出来るのです。それを「政治空白」と呼ぶ感覚は常識を欠いています。
また麻生総理は「政局より政策が大事」と繰り返しました。本人は選挙などせずに政策を作ることが大事と言いたいのでしょう。しかし政策は国民の支持がなければ無力です。国民の支持を得る手段は選挙です。つまり政策を競わせ、その中から確固たる政策を作り上げるためには政局が必要なのです。それが民主主義政治です。しかしこの国の官僚は「政局」を好みません。官僚は「政策」が政治家に関与されずに成立することを好みます。いわんや「政権交代」が起きてこれまの「政策」が変更されることなど考えたくもありません。そうした官僚的思考が「政局より政策が大事」に込められています。麻生総理の発言は官僚を代弁し自分たち政治家の役割を無視するものでした。
時間を稼ぐために景気対策を小出しにするやり方は国民にインパクトを与えません。麻生政権は「四段ロケット」と言いましたが、国民から見れば「牛のよだれ」です。ダラダラとスケールの小さな政策が続くのでは将来不安が解消されません。どだい外需主導の日本経済はアメリカが立ち直って物を買ってくれない限り立ち直らない構造です。その構造をそのままにして、「景気だ、景気だ」と騒いでも全く意味はありません。世界の指導者は今回の金融危機でまず構造問題に言及しています。しかし麻生政権にはそうした姿勢が見られませんでした。
そこで次に考えられたのが民主党に対するスキャンダル攻撃です。07年の参議院選挙で自公政権が過半数割れをした時から、私は民主党の小沢代表はスキャンダル攻撃の最大ターゲットになったと判断していました。日本に限りませんが権力闘争の世界にスキャンダル攻撃は付き物です。世の東西を問わず権力闘争に打ち勝つためにはそれを乗り越えなければなりません。ただし民主主義諸国では警察や検察などの公権力が政治の権力闘争に利用されることはありません。しかし発展途上国では権力を握る側が公権力を使って野党を弾圧する例があります。
かつて細川政権が誕生し、自民党政権が下野した時に何が起きたかを思い出せば、自民党の野党対策を想像する事が出来ます。細川政権は国民の支持を失って潰れたのではありません。細川総理が突然退陣表明を行い、背後で支えていた小沢氏に対する「剛腕批判」が巻き起こって社会党とさきがけが連立から離脱しました。自民党はその社会党とさきがけと連立を組み社会党の村山富市氏を総理に担いで、選挙を経ずに政権に復帰したのです。細川総理の辞任の理由は未だに真相が不明ですが、警察出身の自民党議員がスキャンダルをネタに退陣を迫ったというのが専らの噂です。
麻生総理が組閣に際して、いの一番に前警察庁長官を官房副長官に据えた事は、民主党に対するスキャンダル攻撃の可能性を示していると私は見ていました。私の予想通り小沢潰しのスキャンダル攻撃が炸裂しました。(続く)
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ニッポン維新(54) 迷走の始まり
9月22日に第23代自民党総裁に就任した麻生太郎氏は、24日に国会で第92代内閣総理大臣に選ばれました。小泉政権が05年の9月に総選挙を行って以来、安倍、福田と二代にわたる政権は国民の信任を得ないまま終わりましたから、何よりも解散・総選挙の断行が求められる政権です。29日に国会で行われた麻生総理初の所信表明演説はその事を意識し過ぎて前代未聞のものとなりました。
総理が就任して最初に行う演説は、自分が国家の現状をどう捉えているか、だから何をどうするかについて自身の考えを述べるものです。世界の政治指導者は例外なくそういう演説を行っています。ところが麻生総理の演説は全くそうではありませんでした。最初に福田前政権が作成した緊急経済対策と補正予算の説明を行い、しかし日本経済が立ち直るまでには3年かかるとの見通しを述べた後は民主党に対する質問の羅列でした。
民主党は福田前政権の補正予算案に賛成なのか、反対なのか。インド洋の海上給油には賛成か、反対か。消費者庁の創設に賛成か、反対か。質問だらけでまるで野党の党首のようです。しかも審議を行ってもいない問題に対して賛成か反対かを質問している訳ですから、民主党はまともに答えられるはずがありません。麻生総理の狙いはそこにありました。答えない野党の姿を浮き彫りにして、「我々には政策があるが、野党には政策がない」という印象を国民に与えようとしているのです。選挙を意識して考え出された姑息な戦術です。
総理を支える霞ヶ関の官僚の知恵だとすれば、霞ヶ関の知能レベルが低下した証拠です。麻生総理本人の考えならこの人物に総理の資質はありません。いずれにしても92代に渡る総理の就任演説としては最低でした。ところでこのあたりまでの麻生総理は選挙をやる構えを見せていますが、水面下では選挙を回避する方向に舵が切られつつありました。
麻生政権の誕生と共に自民党が行った世論調査が麻生政権に衝撃を与えました。盛り上がりを欠いた総裁選挙を反映してか、麻生政権の支持率は期待していたほど上がりませんでした。選挙をしても過半数は得られない見通しです。選挙に踏み切る事にためらいが生まれました。しかし全ての事は麻生政権誕生直後の解散を想定して準備されていますから、表の動きは解散・総選挙を意識したものばかりになります。このままで国会議員が選挙に走り出すと、牛の暴走と同じ様に止めたくとも止まらなくなります。
所信表明を終えた日の深夜、アメリカから大ニュースが飛び込みました。アメリカ下院が金融安定化法案を否決したためニューヨーク証券市場が大暴落したのです。麻生総理は思わずこのニュースに飛びつきました。金融危機を口実に選挙を先延ばしする事を決断したのです。これが麻生政権を窮地に追い込む大誤算となりました。(続く)
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ニッポン維新(53) 麻生政権の誕生
錯覚だらけの自民党総裁選挙でも視聴率目当てのテレビ局はせっせと取り上げて放送しました。しかし初めから勝者が決まっている消化試合で、しかも悪役不在となれば選挙は全く盛り上がりません。何とも間延びのしたお寒いパフォーマンスが全国を巡って繰り広げられました。
悪い時には悪い事が重なるもので、選挙戦の真っ最中にアメリカの証券大手リーマン・ブラザースが破綻、世界の金融危機が幕を開けました。候補者の一人である与謝野財務大臣は内輪の選挙などをやっている場合ではありません。すぐに公務に戻るべきでしたが、「日本経済には蚊に食われた程度の影響しかない」と発言して選挙戦を続けました。しかし問題発言になる事を恐れたのか、次には「蚊」を「蜂」と言い換えて、「蜂に刺されれば死ぬこともある」と言いつくろいました。
盛り上がらないまま終わった選挙の結果、本命の麻生氏は地方党員票の95%、国会議員票の56%を獲得して第23代自民党総裁に就任しました。地方票が圧倒的に麻生氏を支持したのは、「小泉構造改革を是正して欲しい」との地方党員の声が反映されていると思われます。しかし自民党内には郵政選挙で当選してきた「小泉チルドレン」など多くの小泉構造改革支持派がいます。郵政選挙で多くの議席を得たため、選挙をやらずに政権のたらい回しをやった結果、自民党は党員と国会議員との間に「ねじれ」が生じているのです。
そうした矛盾をはらみながら「選挙の顔」としての麻生政権がスタートしました。政権の課題は一にも二にも解散・総選挙を断行することです。それは麻生総理も十分に意識していました。最初の組閣人事に妙な形でそれが現れます。人事は権力者の資質を占う最適の材料ですが、麻生総理は臆面もない論功行賞人事を行いました。安倍晋三内閣を思い出させる「お友達内閣」の再現です。「どうせすぐに解散するのだから、その時までの短期の布陣だ」という計算が見て取れます。
私はその人事を見て、「背水の陣内閣」と言ってスタートした福田政権とは対照的な権力の質を感じました。参議院で過半数割れをした政権与党が持たなければならない「謙虚さ」や「危機感」を感じることが出来ないのです。自民党が結党以来経験したことのない苦境にあることを、この総理はどれほど自覚しているのだろうか。そう思わざるを得ない人事でした。
しかもこの人事で麻生総理は前例のない事をいくつか行いました。一つは事務の総理秘書官に総務省出身者を起用し、その人物を最側近としたのです。総理秘書官は財務省、経済産業省、外務省、警察庁からの出向者で構成されるのが通例です。中でも財務省出身者が中心となって総理を支える慣例がありました。麻生総理はその慣例を打ち破って総務省出身者を優遇したのです。
もう一つは官房副長官に前の警察庁長官を起用した事です。この人物は安倍晋三氏が総理在任中に官房副長官に起用しようとした事があり、しかし政権投げ出しによって実現はしませんでした。本人は既に退官して民間に天下っていたところを呼び戻されました。極めて異例の人事です。安倍氏に対する友情なのか、それとも別の狙いがあるのか不可思議な人事でした。
この人事を見て福田前総理が「官邸に警察関係者が多くなりましたね」と嫌な顔をしたと報じられました。私には一連の人事が「旧内務省の復活」と映りました。戦前も戦後も日本は官僚が支配する国ですが、戦前の官僚機構で最も権力を握っていたのは内務省です。明治の初めに権力闘争を制した大久保利通が内務大臣だったからです。しかし敗戦によって内務省は解体されました。日本を占領したGHQは軍国主義を主導した内務省に代わり、大蔵省を官僚機構の中心に据えたのです。
そのため戦後の総理大臣は大蔵官僚を側近に置いて政権運営を行いました。これに対し旧内務省勢力は事あるごとに復権を目指して大蔵省と対峙してきました。元内務官僚の後藤田正晴氏や中曽根康弘氏が政治の世界に進出したのもそのためです。そして霞ヶ関改革によって誕生した総務省は旧内務省の復活と言われる役所です。大久保利通の子孫に当たる麻生総理が旧内務省の復活を意識させる人事を行った事は、霞ヶ関内部の権力闘争を刺激するものでした。(続く)
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ニッポン維新(52) 錯覚だらけの自民党総裁選
福田総理は退陣会見で「総理の発言は国民から見ると、他人事を言っているように聞こえる」と言った記者に対し、「私はあなたとは違うんです。客観的に自分を見ることが出来るんです」と気色ばんで反論しました。この発言が福田総理の駄目さを象徴しているとあちらこちらで批判されました。
しかし私は、福田総理が臨時国会で解散・総選挙に追い込まれる状況を察知し、自分が総理である限り選挙に勝てる目算はなく、一方で小泉グループや公明党が水面下で自分の足を引っ張っている以上、客観的に考えて退陣するしかないと判断したのは納得出来ると思いました。安倍氏のように退陣すべき時期に退陣せず、臨時国会が開かれて質疑が始まってから政権を投げ出した醜態に比べれば、冷静な判断だったと思います。しかし誰からもそれは理解されず、福田総理も安倍氏と同様に「KY」だと言われました。
福田氏の胸中には麻生氏が公明党と組んで政権を狙っていた事に、「それほど権力が欲しいのならいつでも呉れてやる」との思いがあったように思えます。大連立の頃から福田総理を徳川慶喜と似ていると思っていた私は、この政権投げ出しに違和感はありませんでした。慶喜もまた徳川政権を継続させることに執着しない政治家でした。まず大政奉還を行って権力を手放し、にもかかわらず権力を独占しようとする薩長が鳥羽伏見の戦いを起こすと、戦うことをせずにさっさと江戸に逃げ帰り、上野寛永寺に籠もってしまいます。そのため日本を二分する内戦は避けられ、江戸は無血開城されました。勝海舟は慶喜の大政奉還を「公」の政治、明治維新を「私」の政治と断じています。慶喜は天下国家を考えて大政奉還を行ったが、薩長は権力欲だけで明治維新を行ったと言う意味です。
福田総理の場合は、野党に政権を明け渡す前に、与党の中に権力を欲する者がいたため、それに政権を明け渡しました。こうして生まれたのが麻生政権です。この政権は不人気の福田政権に代わり解散・総選挙を行う事が目的ですから、与党は内閣支持率を上げるための作戦を考えました。それがメディアを動員して華々しい総裁選挙を国民に見せつける事でした。01年に小泉総理が圧倒的な国民の支持を得た総裁選挙の記憶が与党には残っているのです。しかしそれは大いなる錯覚でした。
01年の自民党総裁選挙には小泉総理以上に国民を引きつけた田中真紀子氏の存在があり、また野中広務という希代の悪役もいました。それが総裁選挙を大いに盛り上げ、国民は自分に投票権もないのに日本の将来を決する選挙だと錯覚しました。しかしその後は錯覚も次第に覚めていきます。郵政選挙を別にすれば、国民が小泉政権を常に選挙で勝たせた訳ではありません。しかし自民党は派手な総裁選挙をやらないと国民を引きつけられないと思い込んでいました。
「政策の競い合い」と称してテレビに顔の売れた候補者を乱立させました。まじめな自民党支持者から見れば総裁候補とは思えない候補者ばかりが立候補しました。しかし小泉政権以降のメディアは「ワイドショー政治」が「民主主義」だと錯覚していますから、せっせと総裁選挙報道を行い、代表選挙を見送った民主党を「民主主義的でない」と批判しました。
政党内部の選挙をやろうがやるまいがそれは政党の勝手で、民主主義とは何の関係もありません。民主主義というなら、07年の参議院選挙で勝利した民主党が代表選挙をやり、国民の支持を受けた小沢代表を政党の都合で代える方が民意に反します。民主党が代表選挙をやらなかったのは世界の常識に合致しており、極めて民主主義的でした。
反対に党内選挙を華々しく行った自民党には分裂の芽が生まれる危険性がありました。そう思っていると、思った通り自民党最大派閥の町村派が総裁選挙を契機に分裂を始めました。福田総理は麻生政権を望む公明党と麻生支持勢力に配慮して退陣を決めた訳ですから、総裁選挙をやろうがやるまいが麻生政権が誕生する事は決まっています。にもかかわらず自民党が総裁選挙をやるのは、ひとえに自民党の支持率を上げたいためです。しかしそれが大錯覚であることが次第に明らかになりました。(続き)
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